龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

何が日本の政治の強さと健全化を敵対視するのか

我々の生きているこの社会には、いろいろな考えや感覚があって当然であろうが、核心的に本当に大切なことは一つではないにせよ、ごく少数ではないかという気がする。たとえば私も記事に書いていることではあるが、立花孝志氏とタレントのマツコさんの対立という議論の素材というものがある。それを民主主義的にいかに調理して、収めるかということもそれなりの重要性があるのであろうが、我々が社会の質を高めていく上で本当にフォーカスを当てなければならない認識なり理解とは何なのかということである。そこで一つ例を挙げて説明したいのであるが、立花氏が月間3千万円にも及ぶ個人、会社、党の収入とその支出を詳細に報告しているユーチューブの動画がある。

https://www.youtube.com/watch?v=KWP96KarNTk

12分ほどの動画なので時間がある人は是非、見て考えて欲しいのであるが、それを見て国民の多くがどこに着目するのかということが、民度の高さや民主政治の成熟度を表しているように考えられる。私は騒動の渦中にある立花氏を擁護したり、支持する立場としてではなく純粋に客観的な分析なり洞察を試みたいと考えているので、立花氏の公開の意図とは外れているであろうことを指摘するものであるが、私が着目したこと、気になった点は、「文書交通費」の100万円である。この金が立花氏が7月22日に参議院議員に当選して数日後に7月分としてぽんと振り込まれてきている。この名目の金は元西宮県議の号泣会見で問題になっていた「政務活動費」とほとんど同じ性質のものであろう。結果的に野々村氏は詐欺罪で有罪が確定したものであるが、立花氏の動画を見ている限りにおいて、この月額100万円もの文書交通費は、立花氏が迷いを示しつつも個人の収入に仕分けしているように、建前はどうであれ実質的には議員に対して自由に使っていいですよと、包括的に支出されている給与の一部であることは明らかだ。文書交通費の100万円だけでなく「立法事務費」の月額65万円も同質のものである。立法に関する調査権活動の経費ということになっているが、これも言ってみれば公的なものというよりも議員の個人の収入なのだ。よって文書交通費の100万円と立法事務費の65万円に正規の給与としての歳費180万円を合わせて、月額345万円が国会議員一人が自由に使える金なのであって、本来はその使途を報告する義務もないものである。恐らくは全ての国会議員や地方議員もそれらの名目上の目的に合わせて厳密な支出の管理や制限などしていないであろうし、また出来る性質のもので有り得ないことが立花氏の動画を見ているとよく分かる。立花氏も個人的な借金をユーチューブなどの視聴料収入と国から支給される収入を合算した合計から返済したり、或いは息子さんや娘さんへの養育費として月額35万円も支出している。要するに何が言いたいかと言えば、立花氏は正直者だから几帳面にも収入を個人と会社と党に3分類して報告しているが、支出を見れば、結局は政治家の金というものは個人と政治活動を厳密に線引きできるものではなくて、丼勘定以上のものでは有り得ないことを物語っている。収入項目と支出項目を分割対応させて管理してはいないし、そこまで煩雑なことは不可能であろう。それ以前の問題として、たとえば文書交通費という勘定項目は、インターネットやメールがない時代に設定された国費で今の時代に切手代や通信費に月額100万円も使い切れるものではあり得ない。そういう議論が表立って言論空間で展開されたことがこれまでに一度でもあったのか。そういうことを国民が正しく認識することが民主主義の出発点ではないのか。元西宮県議、野々村氏の号泣騒動は何であったのかと言うことである。他の全ての議員が日常的に当たり前のようにしていることが、どうして野々村氏だけが問題になって訴追されることになったのかと言えば、それはマスコミが誘導し、作り上げているポピュリズムによるものであることは明らかである。またそこに政治を作用するマスコミ権力の源泉がある。政治家は国民の目から隠したい事実や仕組みが山のように存在するが、実はマスコミもその政治の隠蔽、ごまかしに底流においては寄り添っているものである。立花氏は正直者ゆえに、そういうことを自ら露呈させる非常にリスクの高い政治活動に敢然と踏み込んでいる。なぜなら自分が刺される可能性のあるネタを公開していることと同じだからである。際物だから単に目立とうとしてやっているだけだという意見もあるであろうし、私も一概にそのような見方を全面的には否定しないが、ある意味で命を掛けていることは事実だと思う。人はなぜ嘘をついたり、物事をごまかしたりするのかと言えば、私はそこに精神的な弱さがあるからだと思う。そういう意味では立花氏の危険な正直さは、強さを反映したものであることは否定できないのではないのか。鳩山由紀夫氏のように大多数の政治家の人間的な弱さは、沈黙や代替的な理想に逃げ込まざるを得ない性質のものである。それが日本の沈滞や腐敗の澱みを生み出している。もちろんだからと言って、立花氏のような泡沫的な議員を救世主だと見做してはいけない。彼のような人間はやがてはマスコミに潰されてしまうであろうし、立花氏自身がNHKのスクランブル化が果たせれば、党を解党して政治家を辞めると明言している。そこで終わってしまえば何の意味もないものであって、我々国民の一人一人が立花氏的な強さを自己の内部に養っていかなければならないものである。言論の自由があるのだから、タレントのマツコさんが、「気持ち悪い」とか「宗教っぽい」と発言することも自由なのかも知れないが、公共性の高いTV番組で自説なり、自分の皮膚感覚を開陳するのであれば、先ず最低限度に相手のことを調べて、理解することが前提になっていなければならない。その上でその意見や感想が維持されるというのであれば、それでは今の日本において、反対概念として、気持ち悪くなく、宗教っぽくない政治がどういうものなのかについて自分なりに論理的に説明できる知性が要求されるものであろう。その能力がなければ政治に言及する資格はないのではないか。或いは言及したとしても、それは薄っぺらなポピュリズムのレベル以上のものでないのではないかということである。またタレント以外にもいわゆる識者と分類される方々が、今回の立花氏対マツコさんの件に限定されないことであるが、単に個人的、生理的な感情を反映させたものに過ぎないポピュリズム大衆迎合)的な意見を正論として述べる人が日本にはあまりにも多過ぎて、私ははっきり言って日本人全体の意識向上を阻む弊害であると思っている。頭の程度の低い人間は有名人であろうと、いや有名人であるからこそ本質的に自分のスタンスを守る広告に過ぎない感情的な意見を自重せよと言いたいが、今の時代はそういうことにも付き合っていかなければならないという煩わしさがある。それが生きるということなのであろうかと私はいつも自分に問い掛けている。