龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

小さな嘘と大きな嘘

一口に茶番と言っても、政界などの特殊な世界だけではなく、我々の日常の身の回りにも茶番と言ってよいような“いんちき”が横行している。今回は、日本の茶番政治のその強固な普遍性というのか、パターン化された構造の原因を日常性の中から探ってゆくことにする。たとえば、わかりやすいところで言えば、テレビや雑誌などの広告で視聴者や読者が、葉書で応募して抽選に当れば旅行券や商品がもらえるという懸賞があるが、あれなどは全部が全部とは言わないが、ほとんどがいんちきであろう。厳正なる抽選など行なっていない。厳正な抽選など厳密に実施したところで何の意味もないからだ。懸賞で広告効果を高めながら、景品は恐らくは馴染みの顧客や、普段から付き合いのある一部の人にプレゼントしているのだと思われる。最近ではインターネットのショッピングサイトで特定企業のメルマガに登録すれば連動して懸賞に応募できるようになっている仕組みが多いが、あれも同様だ。一度も商品を買わずにメルマガに登録するだけで、懸賞に当るようには多分なっていない。実際に、名前こそ出さないが大手インターネット企業の担当者が、以前私の会社にモール出店の勧誘電話を掛けてきたことがあったのだが、その時に懸賞の仕組みについて聞いたところ、確かにそのような説明をしていた。懸賞を出しているお店はどこも、よく買ってくれるお客さんを選んで景品をプレゼントしているのですよ(だから損はない)、ということであった。誤解のないように言っておくが、何も私はその事実を、悪質な不正であるといって批判しているわけではないのである。確かにネットの各店舗から日々、大量のメルマガなどの広告が送信されてくることは鬱陶しいが、その不愉快さの代償に商品を買いもせずにただで景品を貰おうと考えることは虫が良すぎるとも言える。ネット上の各店舗が懸賞で注目を広く集めておいて、内実には、抽選など実施せずに上得意のお客さんにプレゼントをすることは、上場しているような大企業であれば問題はあるかも知れないが、中小、零細企業がこの不景気の最中に出展料や手数料をサイト運営会社に支払って商品販売の採算を合わせようとすれば、止むを得ないことであると考えられる。つまり、まあ許される範囲内の嘘ではないかということだ。もうひとつ具体的な一例を挙げる。中小、零細企業の経営者を対象に怪我をした時に治療費や入院費を補償してくれる、TVでもよく宣伝している財団法人の団体があるが、これも問題になってはいけないので名前は出さないが、私の実家の会社でも昔から加入しているが、その団体も加入者を対象に懸賞を行なっている。何が当るかと言えば観劇のチケットなどだが、私の母が昔から応募ハガキをよく出していて、景気の良かった頃にはよく当ててくれたのに、最近はちっとも当らないと怒り出して、先日、その団体の事務所に電話を掛けていた。厚かましいことで息子の私としても恥ずかしいのだが、当人が言うには、ハガキを出すにもしても毎回、切手が要るので、もう懸賞の抽選を行なっていないのであれば、切手代がもったいないから今後、ハガキを出すつもりはないのだと。それで文句を言うのではなく実際のところ本当に抽選を行なっているのかどうか確かめるために電話をしただけだ、ということであった。そう言われれば、確かに母の言い分も尤もである。そうしたところ、その1ヵ月後ぐらいに見事に“当選”し、観劇のチケットが送られてきて母は喜んでいた。しかし誰が考えてもわかることだが当選ではなく、端から抽選など行なっていないのである。抽選ではなくて、団体職員と関係の深い加入者や私の母のように全然、当らないと文句を言ってくる厚かましい加入者に対して送っているだけであろうと思われる。少なくとも内部で厳密に抽選している光景など到底、想像することは出来ない。しかし世の中はそのようなものであるとも言える。私の母が有り難くもチケットを貰えたから言うわけではないが、その程度のことで不正だと、一々目くじらを立てていたのでは社会は成り立たないのではないか。いんちきと言えば、いんちきかも知れないが、多少の嘘は社会秩序の潤滑剤として包摂されるべきである。しかしどの程度までが許される嘘かということとなると中々、難しい問題である。たとえば昨今、喧しく取り上げられ追及された、生活保護の不正受給の問題がある。確かに餓死者が出るような世相の中で、本当に困っている人に金が支給されることなく、比較的、余裕のある人間が受給し続けている状態は決して許されない社会矛盾であると言えよう。しかし明らかに嘘をついて行政を騙した上で受給資格を得ているのであれば激しい糾弾を受けても、あるいは詐欺として立件されても止むを得ないであろうが、例のタレントの母親のように受給時点で正当な手続きを経て、正当に認められたものであれば、その後の状況が変化したところで、具体的には息子が多額の金を稼ぐようになってもその母親と息子が別世帯、別家計であれば、貰える金は貰い続けようと考えてもむしろ当然と言うか、それが一般的な人情ではなかろうか。年老いて収入はなくても、息子夫婦の世話になりたくないという気持ちもあるであろう。それが許されないというのであれば、明らかに制度設計上の問題であって、要するにこれまでの政治家の怠慢が原因だということである。特定の誰かをスケープゴートのように攻撃することに、一体どのような政治的な意味があったのか我々はよく考えるべきである。ここまで述べれば勘のよい人にはすぐ分かっていただけるであろうが、この時期に自民党の議員が、生活保護の不正受給の問題を持ち出してきたことは、明らかに消費税増税にタイミングを合わせた世論誘導の仕掛けであろう。表向きにそれらの議員が消費税増税に賛成しているか反対しているかはあまり関係ない。本心は賛成であっても、次期選挙のことを考えて反対のポーズを取っている議員も多いであろうからだ。国家財政の困窮と社会保障受給に対する国民意識を、生活保護の問題で知名度のあるタレントを見せしめに叩くことによって、より効果的に“消費税増税は止む無し”の方向に印象付け、誘導しようとしたものだと思われる。こういう大衆操作において日本の政治家は、またマスコミもそうであるが非常に巧妙である。なぜ巧妙であるかと言えば、政治もマスコミも基本的にそのような世論操作しか行なっていないからである。根本的に日本を前進させたり改革したりすることは忌避するが、国民を騙す技術だけは日々研鑽に努めているのである。よって巧妙であって当然なのだ。そしてそれらの操作の特徴は、その時々で誰かを悪者に仕立て上げ、その悪者に対する正義の観念の元で、国民を巻き込んでゆくことにある。これは政治における大衆統治の忌まわしき常套手段であると言えよう。こういうことを繰り返している限り、日本は絶対に根本的な解決へは向かわないで、益々地盤沈下が進んでゆく一方である。反対に言えば、根本的な改革を避けるためにこそ、このような国民を誑かす社会操作が必要であると言えるのだ。官僚はどんなに頭は良くとも所属する省の管轄、権限内においてしか日本の国益を具体的にイメージ出来ないし、考えることも出来ない。縦割りに分断された官僚の権力が日本全体を統制しようとすれば、どうしても問題の本質に向き合おうとせずに、偽装的に大衆や政治の流れをコントロールすることだけに収束してゆくこととなる。政治は政治で、もともと保障されている権力の寿命が非常に短い(官僚やマスコミ、大企業の役員などに比べてということであるが)ゆえに、その短い生存期間内に最大限の収穫を得ようとすることになり、選挙の前にはマニフェストで国民を騙し、政権を獲得した後は既得権益層の代表であるマスコミや官僚と結託することはゲーム理論的には当然の成り行きであると言えよう。それこそモラルの社会概念などまったく無視されている状態であり、民主党への百数十億円にも及ぶ政党助成金民主党議員の給料、歳費こそ、月々一世帯12万円程度の生活保護など比較にならないくらいの極悪的な不正受給であると言えるのではないのか。もちろん12万程度の金でも受給者が200万人を超えるような事態となると天文学的な金額となるであろうが、突き詰めればそのような状況こそが政治の責任であり、犯罪性のない個別のモラル違反を追及するのであれば、政治のモラル欠如こそ厳しく罰せられるべきではないのか。ところが日本の政治権力は、小さな零細企業が懸賞などで小さな嘘をついたり、貧乏人が不正に生活保護を受給したりすることには時として異様なほどに厳しくなるのに自らの嘘によって獲得した莫大な利権については、まったく問題だとは考えていないように見受けられる。自分たちはそれだけの値打ちのある(嘘をついても許される)人間であるとでも考えているのであろうか。本当に腹立たしいことである。とにかくこの国の政党は、小さな村社会や零細企業がその場しのぎに止むを得ず、小さな嘘をつく心理メカニズムの延長線上で全ての国民をだまし、大きな利権を仲間たち(他政党)と奪い合いつつも構造的には分かち合おうとするのである。懸賞がいんちきであるのと同様に、政党の代表選挙もいんちきである。最初から当選するべき人間を決めて茶番を演じているだけだ。菅総理野田総理もそうやって誕生した。世の中には、許される嘘と許されない嘘がある。野田総理マニフェストを一言一句、守り通すことは無理だと言っていたが、誰がそんなことを要求した。一言一句ではなく、マニフェストの“文脈”を放棄しているからこそ多くの国民は怒っていることが分からないのか。文脈とは官僚主権、中央集権体制からの脱却、対等な日米関係、地方分権内需拡大、国民生活重視が目標の政治ではなかったのか。まったくの反対方向に進んでいるではないか。肝心なことを言っておく。小さな嘘が裁かれる時には、大きな嘘が正当化されようとしているのである。日本の政治はそれらの茶番的な繰り返しに過ぎないのだ。