龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治家の発言の効用とリスクについて

緊急事態発生という程ではないが、N国党の立花孝志氏が脅迫の容疑で警察に事情聴取された。今後の捜査がどのように展開していくのかわからないが、N国党の活動を応援する立場で言えば、立花氏は言動に気をつけるべきである。怒る気持ちはわからないではないが、議員は当選後に一方的に党を離党する自由を有している訳であるし、「街を歩けなくしてやる」などとヤクザまがいの脅し文句をネットで流すようなことは、国会議員にとっては自殺行為以外の何物でもない。国会議員にはそれなりの品位というものが要求されるのであるから、あまりに過激な発言は足元をすくわれる絶好の材料を政敵や論敵に無償で提供していることと同じであると知るべきだ。チンピラではないのだから誰かを追い詰めるのであれば、冷静で抑制の利いた態度で論理的に淡々と追及していく方が、相手の心理的な負担はより大きいものになるであろう。警察に駆け込まれるようなことを言ってしまえば、その時点で全ての正邪や善悪は反転してしまうこととなる。一旦そうなってしまえば、自分を守るための弁護活動に時間とカネと労力を注ぎ込まなければならなくなってしまうのであるから、政治家にとって過激な発言というものは、注目を集める力にはなるであろうが、一方で極めてリスクの大きいものであって、総体的に損得の収支に見合わないと言えるのではないのか。日本の政治は、正しいことや本当のことを主張したからと言って評価されるのではなくて、政治家の失言や問題発言を捉えて攻撃し、相手を失脚させることに成功すれば勝ちというか、相対的に自分や自党の優位性が増すという減点方式のルールで動いているゲームのようなものである。それはすなわちどういうことかと言えば、基本的に発言する回数や世間の目に触れる露出頻度の高い議員の方が、気を付けていても人間なのだからうっかりと本音を漏らしてしまって、それが差別的であるとか暴言だなどと問題視され、メディアに叩かれたりスケープゴートのような糾弾を浴びる可能性が極めて高いということである。黙っていて、発言をしないことの方が安全であるし、ある意味では政治家として賢いということも出来るのであろう。選挙運動の時だけは、有権者に顔と名前を覚えてもらうために全国を駆けずり回り、喋りに喋りまくって大衆の感覚に寄り添うようなことを主張しても、いざ当選すれば、ぼろを出さないように何も言わない、何もしないということが、日本では「正しい」政治活動なのである。敢えてすることは、他党や政敵の言葉尻を捉えて徹底的に批判することだけである。そこには日本の針路であるとか国益などというような観念は一欠けらも存在しない。立憲民主党などその最たるものではないか。莫大な政治資金を費消しながら、誰かを批判するための政治しかしていない。国や国民のための政治ではなくて、反対に国益を犠牲にしてまでも不毛な批判に徹する反日政治である。要するに、何が言いたいのかと言えばN国党の立花党首や丸山穂高議員もそうであるが、目立ったり注目を浴びることの戦略的な優位性に目が行き過ぎて、そのマイナス面に対する危機管理意識が不足しているから、わかりやすく言えば、言わなくてもいいことを言ったり、言うべきでないことまで言ってしまったりするのではないかということである。その辺の見極めが甘いという以上に、ノーチェックで垂れ流し状態になっているように見える。このままの状態では先はないぞと言いたい。抽象的な表現かも知れないが、もっと外面的には冷静で節度のある、内面の過激な政治を志向した方がよいのではないのか。動画の閲覧回数は減るかも知れないが、馬鹿な大衆の支持が増えてもそれは政治的なリスクを高めることにしかならないと考えられる。脅迫だと受け取られるようなことを言ってはならないことは、言うまでもないことだ。原稿まで書く必要はないであろうが、頭の中で何を言うか、問題がないかをチェックしてから動画のアップロードをしろと言いたい。感情的に垂れ流すことは危険この上ない行為だ。それからもう一点、指摘すれば抗議活動は議員がしてはいけないということはないであろうが、そもそもデモなどの抗議活動は私のような権力のない立場の人間が取るべき手段である。私は個人的にはデモ活動などはしないが、そういうことである。権力のある国会議員が、権力の無い一市民がするようなことをすることに全く意味が無いとは言わないが、それでは何のために国会議員になったのか、という理屈にはならないであろうか。今回の脅迫容疑の件も同様だと考えられるが、私のような政治の素人が言うことはおこがましいことであるが、立花氏はもっと権力と言うものの安全で有効な活用の仕方をよく学ぶ必要があるのではないかという気がする。