龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ライジンが守るべき価値について

一つの事象や問題に対して多角的に見る視点は複数、存在しているゆえに、その対象の価値や意味も見る人の視点によってたくさんあるのであろうが、何よりも肝心なことはその核心や本質となるべき点は、見る人の視点や視座とは無関係に存在しているということと、それを死者の視点と呼ぶかどうかはともかくも、俯瞰の視点によってしか得られないものであるということだ。言い換えれば、同一平面上の同じ目の高さで見ていても意見や価値観の対立を生むばかりで、その事象の核心や本質は見えてはこない。哲学的で小難しく思われるかも知れないが、そんなに難しい話しではない。わかりやすく具体的な例で説明すればこういうことになる。

昨年末、大晦日ライジンの大会においてシバターの久保選手に対するやらせ提案の是非が様々な議論の対象になっている。人によってはシバターの提案をエンターテインメント性や一つの戦術として擁護する意見もある。ではライジンの価値や本質はどういうところにあるのかということである。近年、総合格闘技の人気が高まってきているように見受けられるがその魅力は一体何なのであろうか。秒速で億の金を稼ぐ投資家、与沢翼氏の言葉を借りれば、私はその言葉を気に入っているの使わせてもらうが、総合格闘技の興行としての絶対に外してはならない「センターピン」は何なのかということでもある。言うまでもないことだが、それは真剣勝負が生み出す緊張感や迫力であろう。エンターテインメント性やリング外の戦術、煽りのような類は、見る人によっては面白いと思うものかも知れないが、それらは決してセンターピンにはなり得ない性質のものである。センターピンにさえ当たれば、あとは雪崩式に全て倒れていく。エンターテインメントや煽りはボーリングのピンで言えば最後列の両サイドに立っているような位置づけであろう。もちろん真剣勝負の魅力を伝える競技は総合格闘技だけではない。野球やサッカーであれ、相撲や柔道であっても全ては真剣勝負であるが、総合格闘技は真剣勝負の醍醐味を最も鮮烈に観客や視聴者に訴求する力を持っている。そしてそのような真剣勝負の魅力が大衆に切実に要望される社会的な土壌というものもある。それは政治を含めて世の中の全体が、やらせや八百長みたいなものばかりで何を信じて生きて行けばよいのかわからないということである。アメリカの大統領選挙ですら本当なのかインチキなのかよくわからない。というよりも恐らくはインチキであろうが、だからこそ、そういう世相であるがゆえに総合格闘技の真剣勝負に社会的な価値と需要があるということである。興行としての格闘技の意義はともかくも、ここにおいて重要な認識は、TVや新聞は国民に事のセンターピンの在りかを伝えるものではないということである。センターからずれたサイドの位置に国民の意識や理解を誘導し、固定化しようとする。その理由は、言わなくともわかるであろうが、国民がセンターの本質に目覚めてしまえば、政治の様々な嘘やごまかしが通じなくなり、搾取や支配が難しくなるからである。同様に世の中には色々な視点から一つの問題に対してあれやこれやと意見を述べ立てて、収入を得たり、社会的な地位を確立させている人がたくさん存在するが、そういう人々も国民がセンターピンを掌握してしまうと仕事を失ったり、注目を集めることができなくなってしまうであろう。そういうことである。民主主義だからとか価値観が多様化しているからと言っても、物事のセンターピンがたくさんあるわけではない。その在りかは不変であり、常に一つしかないということである。一つの物質を見る視点は複数あっても、物質そのものの重心はただ一点であることを知ることが重要であろう。そういうことを多くの人がわかっていないというか、わからないように仕向けられているので、特に日本はどうでもよいようなくだらない議論や報道ばかりで、生活も経済も政治もそれらの実態や中身は何一つとして改善していきようがないということなのだと考えられる。日本の経済が20年以上に亘って0成長だということは異常なことである。

話しをシバターのやらせ問題に戻すと、総合格闘技のセンターピンが真剣勝負の魅力であるならば、団体はその価値を何よりも守り、ゆるがせにしてはならないはずであって、隅の7番ピンや10番ピンに相当するようなエンターテインメント性が、センターに位置する真剣勝負の価値を打ち消したり、消滅させるようなことは本末転倒で絶対に許してはならないことのはずである。しかしこの問題に対するライジンの対応は遅いし、鈍い。その理由は恐らくはライジンが正統的な真剣勝負とエンターテインメントとしての客寄せ、視聴率アップのようなことを長年、混在させてやってきているので、代表者の榊原社長自身が何がライジンのセンターで、何を守らなければならないのかという軸がわからなくなってきているのではないかと想像される。ユーチューバーのシバターの試合だからやらせが許されるというものではないはずだ。ユーチューブの企画であれば、洒落やネタで済むのであろうが、大晦日ライジンは日本の全国民が全ての試合は真剣勝負だと思って見ているのである。また榊原社長ご当人は真剣勝負の価値を軽視するようなことはないと否定するであろうが、本当にその軸がしっかりとしているのであれば、見世物的に体重差の大きな試合を組んだり、開催日の僅か数日前にどたばたと対戦のカードを決定したり、選手の怪我や疲弊のリスクを無視して1日に2試合も強行するようなことはないと私は思うのだが。それらは真剣勝負というよりも真剣勝負を売物にしたある種のエンターテインメント興行であると言える。そうであればシバターだけの問題ではないように感じられる。むしろライジンの体質に問題があると言えるのではないのか。いずれにせよ試合前のやらせ提案など真剣に見ている者を馬鹿にしているとしかいえないものだ。何がエンターテインメントだ。ライジンが今後、世界に通用するような正統的な格闘技大会へと改革していくためには私は代表者を交代させる必要性があると考える。

(吉川 玲)