龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

サムライの称号について

ロシア紙がサッカー、日本対ポーランド戦の試合内容を酷評して、今後「サムライジャパン」とは呼ばないと言っているようだが、その感想、反応は私は概ね正しいと思う。そもそもポーランド戦の後半残り15分の戦術だけでなく、日本人の私から見ても「サムライ」という称号を軽々しく使わないで欲しいという気持ちだ。サムライの称号に相応しい徳性とは何かと言えば、戦ったり或いは生きていく上での美意識があるかどうかということに尽きる。究極的にはその美意識、美学のために死ねるかどうかということが本来のサムライ道であるが、さすがに今の時代にそこまで要求することは無理であろうが、それでもサムライの称号に恥じないように誇り高く戦う、生きるという精神や心意気というものはそう簡単に捨て去るべきものだとは思えない。今の日本社会の世相というものは全体的に非常に世知辛いというのか、打算的で視野狭窄である。近視眼的に目の前の現実、結果が全てだと言うような物の見方が充満している。それで結果オーライすなわち結果が良ければ全てが正当化され、結果オーロング=all wrong(という言い回しがあるかどうかは知らないが)、結果が悪ければ全てが否定され、徹底的にその対象を批判したり叩いたりすることが許されるという風潮である。勝負事だからそのような見方はある程度は止むを得ないのであろうが、あまりに結果至上主義に傾くことは日本の歴史的な武士道やサムライの称号に反するものであるし、何よりもそこに心の豊かさが感じられないことが寂しい。これは何もサッカーだけのことではなくて全体的に日本の戦後とは美意識というものを徹底的に排除して打算と人心掌握的な調整だけで成り立っている一つの均衡であるとも言える。なぜ美意識が排除されなければならないのかと言えば、一言で言えば危険だからである。美意識は全体的なナショナリズムに結び付きやすいし、対立を生む根本的な原因ともなる。だから日本人の全てが危険因子であるところの美意識を心の中から排除して、目の前の現実、結果だけを重視して生きていく地点に自然と誘われてきたのである。そしてそのような生き方、考え方の必然として自分さえ(或いは自分が属する組織さえ)良ければよいのだというエゴが強固になっていく構造がある。本当は日本人は今こそ何を大切に守らなければならないのか、何をモットーにして生きていかなければならないのかについて一人一人がよく考えなければならない時だと私は思う。そしてその精神が最終的には日本人の生命を守っていくというところにつながっていくはずなのだ。サッカーの結果などどうでもよいのである。日本人は生きていく上で大切な何か、決して見失ってはならないはずであるのに見失い続けてきた美しい何かを一人一人が果敢に相手からボールを奪い取りにいくように取り返さなければならない。そしてそれが主体的に主導権を持って生きていくということの意味なのである。