龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

貴乃花を見ていて思うこと

相撲や芸能界のことは疎いので詳しくはわからないが、世間を騒がせている貴乃花のことについては色々と思うところ、感じるところはある。一口に不器用と言ってしまえばそれまでであるが、今の時代の世相であるとか、社会意識というものが目には見えないけれど強固に横たわっていて、その中で自らの信念を頑なに貫き通すことが果たして良いのか悪いのかと言えば、それは「信念」という言葉の内部に収斂される生き方や価値観の問題なので第三者的に可否を論ずることは難しいが、結果的にはマイナスに作用したり、挫折したり、失敗することが多いということは言えるのではなかろうか。それは信念の中身や信念を持つこと自体が間違っているのではなくて、社会的、相対的に信念というものの価値が低く見做されていることの反映だと思われる。社会や世の中全体がどういう風に回っているのかということとの兼ね合いであるが、大勢が偽善、欺瞞に満ち溢れていて自己中心的で保身ばかりを考えて成り立っているような一つの均衡というか安定の中では、信念を持った人間というものは単に異質であるというだけではなくて、一個人の信念という力学や固執が社会や共同体の側から見れば、まるで悪意があるかの不安要因として敵対視される運命を背負っているように考えられる。はっきり言って今の世の中で信念のある人間ほど、ある意味では鬱陶しくて邪魔者はいないと言えるのではなかろうか。なぜなら敢えて説明するまでもないことではあるが、信念のある人間をうまく説得して懐柔したり、丸め込むことは不可能である。そういう人間が一人いるだけで、組織や共同体の調和や安定が脅かされるのである。何をどのように説得しても妥協や取引さえ成り立たないような相手であれば、最終的には排除するしかないという選択にしか行き着けない。しかしそれはいつの時代にあっても、またどの国のどの地域でも普遍的にそうなのかといえばそうではないと思う。信念というものの価値が認められる時代や社会であれば、もちろん時と場合にもよるであろうが、少なくとも貴乃花のように信念そのものが生体組織における癌細胞のような扱いを受けることにはならないと考えられる。それは相撲協会の改革にあっても、家庭内の問題であってもプロセスはともかくも行き着くところは同じであると思われる。国技として長年、国から手厚い援助や庇護を受けてきているような閉鎖的な協会が堕落したり腐敗することは当然というか必然ではあるが、そういう現実に対して自らの強固な信念で相対しても今の風潮では実際的な改革への端緒に結び付けることにもならない。家庭内のことに立ち入って論評することは憚られるが、息子が靴職人であるのに靴を作らずにタレント活動を生活の中心に移行させているのであれば父親として反対することは当然である。そもそも職人というものとタレント稼業は水と油のように両立させられるものではないと思われる。基本的に物を作る職人の仕事は時間のかかるしんどいものであって、TVのように30分や1時間出演しただけで、1ヶ月かかって靴一足を作り販売する何倍、何十倍も稼げるのであれば職人の仕事が疎かになることもこれまた当然のことである。よって母親が息子のタレント活動を応援しようとする気持ちもわかるし、その姿勢を他人が否定できるものではない。これは良い悪いの問題ではなくてほとんどの人間は、信念などではなくて、打算的な損得勘定で機会を選択し、日々の生活を生きているものである。これは国家でも会社組織でも家庭でも基本的には同じことだと思われるものであるが、ある程度の所与の豊かさなり、基盤なり、財産があるのであれば、いかにその全体性の価値体系の中で排除されたり、貶められることなく、適合性と効率性を高めていくかということに注意と関心が向けられるものであって、「信念」などという得体の知れないものはマイナス要因などという以上に、全てを無に帰さしめるほどに危険極まりない精神性であると言えるであろう。それは今の日本の政治を見ていればよくわかることである。だからどうだと言うことになると何とも難しいことだが、結局、我々はどのような信念や価値観を持とうとも山奥に籠るのでもなければ、その時代の全体的な社会性なり堕落の影響下の中でしか生きていくことはできないものである。安直にそれを悟ることが大人になることだなどとは言いたくはないが、単純に処世術や戦略の問題として考えて見た時に今の日本にあっては、一個人の信念というものがあまりに前面に出過ぎてしまうと結果的には敵を作ったり、社会的な地位を抹消されたり、潰されることにしかならないということは言えるのではなかろうか。では妥協や忖度ばかりしていればよいのかと言えばそれはそれで問題なのであろうが。貴乃花を見ているとその生き方の困難さや挫折自体が、これからの日本の行く末を案ずる神々の憑代となって、日本人全体に高らかに警鐘が打ち鳴らされているような気がしてならない。貴乃花自身にはその自覚がなくともたとえ無意識であっても、そうであるからこそ信念を捨てられないように見えなくもない。もう少しで元号も改まることであるし、日本もそろそろ変革や信念の価値共有を社会全体で大きくしていくべきであると私は考える。