龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

嘘に包まれた世界

毎年、押し迫った師走の時期になると放映されるTV番組がある。一応はドキュメンタリーの形式で作られている犯罪の摘発である。多いのが詐欺や万引きであるが、先日もTV東京で放映されていた万引きの現場と逮捕取り調べの様子を何気なく見ていて思う所があった。先ず人が多く集まるスーパーなどの店で万引きの被害が大きいことは事実であろう。それは否定しない。しかしである。はたしてTVで紹介されていたような、万引き取締り専従のいかにも買い物をしていなさそうな目付きの鋭い人間が売り場を徘徊していたり配置されているような状況で、そう易々と万引きが実行されるものであろうか。抑止効果になるというのであればまだしも頷ける。仮に私が万引き犯の立場であれば、最初に店内をぐるりと歩き調べて、そういう「怪しげ」な人間がいないかどうかを確認してから万引きに着手するであろう。それが一般的な犯罪者の心理というものではなかろうか。それにTVカメラのスタッフは、万引き犯が逮捕されて別室に連行されてくるまで一体どこで待機していたのであろうか。町のスーパーの様子を考えていただければわかると思うが、店内にはそのようなスペースはない。TVカメラを抱えた人間やスタッフが数人、うろついているだけでかなり目立つことであるから、普通に考えればとてもではないが万引き犯は落ち着いて「いつも通りの仕事」をできるものではないはずだ。それではTV班のスタッフは取り調べが行われる別室でじっと待機して待ち続けていたのであろうか。それも考え難いものである。いかに万引き被害の多い店であっても、数時間待ち続ければ必ず犯人を確保できるというものではないはずだ。丸一日待ち続けても収穫なしということもあるであろう。TV局の制作の人間は万引きの犯行場面と取り調べの様子を撮影するために何日もそのスーパーに通い詰めて、狭い別室に閉じこもってじっと待ち続けたというのか。そういう真実への「我慢強さ」が絶対にないとは決めつけられないが、普通に考えればそれでは「ビジネス」として効率が悪すぎるであろうからそのような手法は採用されないはずである。それに仮にリアルな正真正銘のドキュメントであったとしても、TV番組の材料に使うために万引き犯を捕まえて取り調べている光景を撮影するということは、犯罪者であるとしても人権はあるのであるからそれはそれで問題があるとは言えないであろうか。TV局の人間もいくら何でもその程度の認識はあるであろうから、要するに何が言いたいかと言えば、絶対にとは断定は出来ないけれどこの手のドキュメンタリー番組は大抵は「やらせ」なのである。今回見たTV東京はまだ放送局として信用性は残っていそうな気もするが、TBSの犯罪捜査ドキュメンタリーなどは個人的には間違いなくやらせであると確信している。それで大衆の皆様方に問題提起をしたいのであるが、スーパーで数百円のものを万引きすることと、TV局がやらせの内容を真実のものと偽って放映することとどちらが道義的に問題が大きいのであろうか。何も万引きの些末さを相対的に擁護している訳ではない。万引きは犯罪である。犯罪を犯せば警察に捕まって処罰されるのが当然のことである。しかしTVのやらせは日本中に嘘をついてスポンサーから多額の金を集め何千万、何億円という規模の金儲けをしているにも関わらず犯罪にはならないのである。まあ言ってみれば嘘のつき放題が公に認められ放置されているわけである。その中でマスコミや政治に都合のよい大衆の訓育というか情報操作をしているだけのことである。万引きとTVのやらせは全然、質の異なる問題だから単純に比較出来る問題ではないという人もいるであろう。それではこういうことではどうであろうか。万引きと政治家による政治資金の私物化はどちらが悪いのであろうか。どちらも「泥棒」である。私は同じ泥棒でも一本200円の大根を盗む万引きよりも明らかに政治家の方が悪質だと思う。政治資金を流用して湯水のように個人の私物を買っている人間は、「運悪く」週刊誌で追及されている政治家だけではない。おそらくはほとんど全ての政治家が大なり小なり当たり前のようにそういう行為を習慣化させているはずである。万引きが犯罪で悪いことは誰もが否定しないことであるが、政治家による税金の泥棒行為は万引きなどより何万倍も悪いはずなのに恒例のイベントのようにごく少数の政治家だけしかマスコミや検察によって摘発、追及されることにはならないのである。そこにどのような理由があるのかどれほどの大衆がわかっているのであろうか。というよりも、そもそもそういう疑問をどれほどの人間がこれまでの人生でたった一度でも考えたことがあるのかということである。そういう人間に今更、何をいっても同じだと思われるが、たとえば「おれおれ詐欺」の被害総額が数百億円とか数千億円などと言われているが、TVのやらせを見抜けないこととおれおれ詐欺に騙されることの根っこにある性質は同じなのである。そういう意味ではおれおれ詐欺と言う犯罪の氾濫は、現代社会においてとても根深い要因を内在していると考えられる。確かにTVのやらせがわからなくとも、そんなことを敢えて見咎めなくとも何の実害もない。ただそういうものだと信じて日々の生活を暮している方が気持ちも安定するし、幸福に包まれているような錯覚がある。しかしそのような精神性だとおれおれ詐欺の巧妙な嘘は見破れないのである。なぜならそれはTVのやらせや政治の嘘と同質であるというか、そういう虚構性を悪用した上で成り立っている詐欺だからである。別に自慢するつもりもないし、自慢できることでもないが私のような人間は詐欺の被害に遭い難いのである。それは犯罪だけではなくて全ての権威的なものや正当と見做されているものにも当然のように嘘が含まれていることを承知しているからだ。その上であらゆる人や機会との付き合い方や距離の取り方というものを考えている。ところがほとんどの大衆は何かに騙される以前に、既に騙されているのである。そしてそれが自覚できていない。そういう人々が詐欺の被害に遭うということは、ある意味では宿命なのであろう。おれおれ詐欺というものはそういう大衆の無防備な信じやすさというものを嘲り笑いながらも、改めていくよう親切にも教育してくれているのである。