龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

お笑いと政治

TVに関して言えば、たとえば「お笑い」というものは個人的には嫌いではない。大阪人でもあるので別にお笑いに抵抗感はないし、漫才を見ることも多い。大体において笑いを解する心やユーモアのセンスのない人間は頭が悪いし、精神性が低いということは言えるであろう。しかし笑いの質というものがある。馬鹿みたいにゲラゲラと笑っているだけでは笑いの質を見極めるところまではいかないのではないか。漫才に関して言えば今年の「M-1グランプリ」も全てではないが決勝を含む最後の方は何気に漫然と見ていた。決勝では、ジャルジャル、和牛、霜降り明星という3組のコンビが残って結果的に霜降り明星が優勝することとなった。漫才は大衆芸能なので絵画や骨董品を評価するのとは違って、プロと素人の見方や見る技能にそれほどの隔たりがあるものではないであろう。すなわちプロだから真価がわかるというものではないと私は考える。要は面白くて笑いが多い方が勝ちという単純さがベースになっていることは否定できないであろう。しかしその笑いの質についてはほとんどが批評の対象になっていないと思われる。今年のM-1グランプリの決勝に関して言えば、本当に面白くて笑えるのは和牛だけであった。ジャルジャルと優勝した霜降り明星の漫才について言えば、その笑いの質は話しの中身が面白くて笑っているのではない。話しのテンポの良さとテンションの高さ、そして勢いで強引に笑いの渦を作っているのである。確かにそれも一つの話芸であるのであろうし、観客もまたそういう質の笑いを求めているのかも知れない。だからそれはそれで立派な漫才であると言えるのであろうが、私に言わせれば痴呆的な笑いである。自発的な笑いというよりも、話しそのものは全然面白くないのに全体的な雰囲気やムードにつられて追随するように笑わされてしまっているという話芸である。和牛の漫才はそういう風に観客を無理やり笑わそうとはしていない。純粋に面白いから笑えるのである。昨年度に優勝したコンビのとろサーモンの笑いもテンポの良さや勢いだけで笑わせる笑いではなくて和牛と同様にネタが練られていて記憶に残る面白さであった。ジャルジャル霜降り明星のような漫才は、漫才が終わった3秒後には何も心に残っていないし、何がおかしくて笑っていたのかも忘れてしまっている。それが決定的な笑いの質の違いというものだと私は思うのである。そういう痴呆的といえば言葉が悪いので怒られるかも知れないが、条件反射のように笑いを引き出すテクニックの根底にあるものは思考停止である。脳で考えるよりも先に出てくる皮膚感覚的な笑いである。脚気の検査で膝のお皿の辺りを叩くと足が跳ね上がるのと同じである。

そしてそのような思考停止のお笑いの質は、実は政治にも共通しているものである。たとえば自民党の元小泉総理が「自民党をぶっ潰す」とか「聖域なき構造改革だ」などと威勢の良いことを叫べば、大衆はほとんど何も考えないでそこに何かを期待して支持してしまっていたものである。これがテンポの良さと勢いだけで笑わせる漫才とどれほどの違いがあるのかということだ。そして自民党の政治というものが本質的には日本の何を維持、継続させようとしているのかということである。それは自民党が何でマスコミの地位や権益を保守しようとするのかという問い掛けとも共通するものである。漫才が悪いのでもないし、漫才の思考停止が間違っているとも思わない。誰だって時には何も考えないで馬鹿のように笑っていたいとは思う。しかし政治も含めて全てが漫才と同じような話芸とか大衆操作のレベルで進行してしまっていることが大変な問題なのである。小泉政治だけでなく安倍政治も何の違いもない。憲法改正を唱えていれば支持されると思っている。日本の政治は思考停止の同調的な支持を強引に生み出す話芸のようなものでしかない。そしてそこには野党などというものは何の存在感も持ち得ていない。なぜなら野党もまたそのお笑いのような話芸の文脈に参加しているだけだからだ。それが日本の政治なのである。それが日本の戦後秩序なのだ。今、TVのヤラセや演出が問題になっているが、日本の政治そのものが全体的に一つの演出でしかないものである。だからそれゆえに政治とマスコミが結託することは必然なのである。