龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

小物のブラフ

騙されてはならない。菅首相は、そろそろ“見せ掛け的”に解散・総選挙の腹を固めつつあるので、“脱原発”などのパフォーマンス言動は、基本的には選挙対策に過ぎない。税と社会保障の一体改革なるところの消費税増税論議も一旦封印して、現時点では官僚と“対立して見せて”まで、国民感覚に寄り添うイメージ作りといかさまの選挙争点を浮き彫りにさせる方向性に転じつつある。国民の支持を失い、党を統率する力もない菅氏が首相の座に居座り続ける理由など何一つもないが、口で何と言おうとも勇退するつもりはないであろう。菅氏にとって首相の座を明渡すことは、政治家生命の終焉と同義である。よって民主党が壊滅状態に陥ることが目に見えていても、被災地の復興や被災者への救済が遅れようと、いずれ政権運営が完全に行き詰まってどうにもならなくなった時点で内閣は解散されることとなるであろう。自分のことしか考えられない人間の考えることなどその程度のものだ。
だけど卑しくも国会議員であるならば選挙を恐れるなと言いたい。そもそもそういう品性の人物を首相に担ぎ上げたのは自分たちの責任なのだから自業自得ではないか。ここは原点に戻って、国民の審判を問い直す時期であるのかも知れない。だからこそ我々国民は今、菅氏の姑息なパフォーマンス言動に惑わされてはならないのだ。2009年8月の民主党政権誕生は、単なる政権交代であること以上に歴史的な意味があった。日本の民主主義に初めて、二大政党制の政治が活着する端緒が開かれたのだ。二大政党制による政権交代が国民の政治意識向上を促し、その結果において国が活性化し、国民生活に明るさを取り戻せる希望の道があった。茶番で誤魔化しの政治ではなく、日本に本物の民主主義政治が生まれる可能性が花開こうとしていたのだ。そういう千載一遇のチャンスを自らの権勢欲だけで徹底的に壊してしまったのが、菅直人というどうしようもない程、小市民的な小物の男である。万死に値する、とはこういう人間のためにあるような言葉だ。また、そういう人間ほど一旦手に入れた権力を死に物狂いで手放そうとしないのだから、至ってたちが悪い。ともかく時間を過去に戻すことは出来ないのだから、ここは一からもう一度、やり直すしかない。選挙をするというなら、やってみるがよい。どうせ半分はブラフなのは目に見えている。総理ご当人ですら当選できるかどうか、わからないではないか。
しかしここに宣言するが、私は選挙には行かない。今まで毎回、投票所に足を運んできたが、ほとほと馬鹿らしくなった。何で菅直人のようなどうしようもない総理大臣を作り上げるために、700億円もの国費が投入されなければならないのか。今後、知事選や市長選の地方選挙には投票に行き続けるが、国政選挙には、日本の政治に茶番の様相がなくなったと実感として感じ取れるまでは絶対に投票しない。いわゆる良心的忌避というやつだ。但し、こうやって政治について思うところは述べ続ける。投票しない人間に発言する資格はないと考える人も多いかと思われるが、私の良心的忌避宣言は一つの明確な考えに基づいている。それは国民生活の質は、政治の質によって決まるものであるが、政治の質は選挙の結果とは別物であるということだ。政治の質を変えていくためには国民の一人一人がより高次に政治への認識を深め、関わっていかなければならないと思う。投票の良心的忌避表明は、そのための一手段になり得ると私は思う。しかし私は多くの人を煽動するつもりは毛頭ない。(こういうことも断っておかないと今の政治家のレベルでは、煽動罪で検挙されかねないから心配だ。)愚直に明るい未来を信じて清き一票を投じ続けるのはその人の自由だ。しかし圧倒的多数の有権者が白紙投票で抗議したり、あるいは特定政治家の落選運動を激しく展開させてゆくようなことをしなければ、日本の政治の質は変われないように思われる。だから私は国政選挙投票の良心的忌避を宣言する。
意識レベルの高い有権者がことごとく馬鹿らしさの余り、投票を忌避するようになり、投票率が20%台ぐらいに落ちたときに日本の政治空間はようやく清澄な空気に満たされ始めるのではないだろうか。我々国民は、無理をしてまでこれ以上政治の馬鹿らしさに折り合いをつける必要はないのだ。