龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

左巻きの右投手

首相が1年ごとに、ころころと交代する日本の政治は、外交的に見ても好ましいものでないから首相就任後、短期間での辞任は避けるべきだという声がメディアにおいて散見される。確かに日本の国際的な評価にプラスになるものではないが、その論調には民主政治の極めて重要な要諦が、見落とされている。
首相は野球で言えば、投手のようなものである。一挙手一投足が注目される花形であるから誰でも一度マウンドに立てば、代わりたがらない気持ちになるものであろう。しかし本来、政治も野球と同じ真剣勝負であるべきだから、打たれれば代えられるのは当然である。なぜならそれが実力だからだ。政局がどうの、こうのは言い訳に過ぎない。水が自然と低きに流れるが如く、明らかに無能の人間が行政のトップに就いていれば、辞任してもらいたいと国民が願うのは当然である。首相の1年は野球で言えば1回であり、ボクシングで言えば1ラウンドだ。衆議院の任期である4年(回、ラウンド)ぐらいは持たなければ確かに外交上の見栄えは良くないが、力の無い者を続投させることは試合を捨てているのと同じである。日本の首相に9回完投勝利や12ラウンド、フルに戦い続けて圧倒的な判定勝ちを収めることを期待することが土台無理な相談だとしても、1回(ラウンド)持たないでノックアウトされる政治家ばかりが続く状況を考えると、これは単に人材不足であるというよりも日本政治の構造的な問題であると見るべきではないのか。本当に力のある、変革を為し得る可能性を秘めた人間が、決して日本の首相にならないような目に見えない圧力が黒々と渦巻いているように感じられてならない。菅総理はカレンダー的には1回を持っているが、実質的にはペテン的な手段を行使してまで不当にマウンドに居座っているだけで、とてもじゃないが1回無事に抑えたという風に見えない。そもそも元々、マウンドに立つ基本的な資質があったかどうかも疑われるほどである。ここにおいて我々国民の一人一人は、日本の政治に対して極めて素朴でありながらも、これ以上ないほど本質的な疑義の声を上げる必要性に迫られている。
“日本の政治とは真剣勝負なのか、それとも単なる見世物に過ぎないのか。”
ということだ。民主党の政治を見ているとつまらないバラエティー番組を見させられているような惨めな気分に陥る。はっきり言って自民党政治の方が、まだましであった。テレビであればスイッチを切れば気分転換できるが、政治の現実はどこまでも国民の生活に付きまとう。俗悪極まりない政治興行が、我々の生活を壊そうとしている。震災後4ヶ月近く経過するというのに、未だに避難生活を送っている多くの被災者に仮設住宅や仮住まいのアパートが行き渡る目処すら立っていないではないか。さて、菅総理は未だに続投のための姑息な手段を奥方と共に考え続けることに余念が無いようであるが、我々国民は意識を先へと進めて、ここまでの民主党政権の総括をなすべきだ。
2009年8月の総選挙で民主党自民党に圧勝して、鳩山政権が誕生した。鳩山由紀夫は総理としての器があったとは思えないが、本気で国民のための政治をしようとする志というか、心は持っていたと思う。鳩山由紀夫の政治家としての本質は、理想主義者であることである。理想主義者の総理が良いか、悪いかはともかくとして、なぜ、鳩山由紀夫氏が理想主義的な思想を有しているのかを我々国民は考えなければならない。身も蓋もない言及かも知れないが、その理由は、鳩山由紀夫氏が日本有数の大資産家の出自であるということだ。腐るほどに金を持っているから友愛の精神などを鼓吹できるのであろうし、また総理大臣にもなれたのだと思う。それで、その前の麻生元総理の時もそうであったが、日本のメディアは彼らの金満家の素性を執拗に攻撃し続けた。カップ麺の値段も知らないとか、ろくに漢字も読めないくせにホテルの高級バーでばかり飲んでいる総理は、庶民の敵であると言わんばかりの論調であった。鳩山由紀夫氏に至っても、今となってはどうでもよいことであるが、母親からの多額のお小遣いならぬ資金援助が、政治資金規正法に抵触しているとか贈与税の脱税であるなどと盛んに喚き立てた。確かに厳密に法律を考えればそういうことになるのかも知れないが、あまり高級な権力批判と言える性質のものではなかったと思う。貧乏人の家庭に生まれたからと言って、差別されたり偏見の目で見られてはならないのと同じ意味で、大資産家の生まれであるからという理由で庶民や大衆の敵としてのレッテルを貼ってはならない。しかし鳩山由紀夫氏の理想主義がその出自に由来するものであろうことは、偏見ではなく一つの洞察であると言える。国民が政治と政治家の本質を考えるとは、そういうことではないのか。マスコミの論調は基本的に国民の思考能力を奪うものである。
翻って菅直人氏について言えば、資産家の家柄でもないし、二世議員ですらない。政治と金の問題においても、小沢氏のように一般に噂されるところのゼネコン担当者をどやしつけて無理やり献金させる政治手法とは対極のクリーンなイメージにあったので、マスコミは菅内閣の誕生を大いに歓迎した。ところが半年も立たない内に当然のように馬脚を現し始めた。鳩山由紀夫氏のような宙に浮いた理想主義ではないが、露骨で醜悪な現実主義というべきか、菅氏は人を見て平気で態度を変える人格の持ち主であると見れる。基本的には強い立場の者にはなびき、弱い立場の者には強く出る。もちろんこの場合に“強者”と“弱者”をいかに正しく見分けるかが重要である。政治の世界において、強者と弱者は必ずしも固定化されたものではないということだ。時に応じて、大金持ちや社会的地位が高い人間が弱者になったり、無名の一弱者が圧倒的な世論の支持を受けて強者に転じたりする。菅氏の政治家としての基本的なスタンスはその時々の勝ち馬に乗ることであり、終始一貫している点はいかに“状況”を自分のために利するかという思考方法にあると思われる。それは菅氏が鳩山氏のように大資産家の出自の人間ではなく、2世議員でもないので、御当人も無意識の内に自然と育まれてきた能力なのであろう。また市民運動家なる者の正義と表裏一体をなす一側面であるとも思われる。薬害エイズ訴訟で菅氏が厚生大臣として国の責任を認めた経歴についても、マスコミはさかんに菅氏の英断を賞賛していたが私はその当時から何となくいやな感じがしていたものだ。また薬害エイズの原告たちもあまり積極的に菅氏を評価したり感謝していたようには私には見えなかった。原告は当事者である分、政治家としての菅氏の計略的な動機が見えていたのだと私は考えていた。大企業のサラリーマン社会であれば立身出世のための立派な能力であると言えるかも知れないが、そのような風見鶏的な処世術が首相の立場にあるものとして日本の国を導けるものであろうか。本当の意味で国を導くという感覚すら持っていないように私には見える。マスコミや財界が菅氏をここまで大切にしようとしてきた理由もここまで記せばご理解いただけるかと思うが、単に扱いやすいのである。マスコミは、麻生氏や鳩山氏のような大金持ちは簡単になびいてくれないから嫌いなのである。マスコミは素直な菅氏が大好きであったが、あまりに程度が低すぎるのでこれ以上、擁護すると自分たちの権威を損ねることになると態度を変え始めている。私の直感だが、恐らくアメリカも菅総理を見捨てているのだと思う。多分、そのアメリカの判断に日本のメディアは同調し、菅氏は菅氏でアメリカの後ろ盾を失ったことで精神的にちょっとおかしくなってきているようにも見受けられる。何となくではあるが今の菅氏はそういう顔付きをしている。ただしこういう記事内容が万が一、見つけられるとアメリカは中立の体面を保つために表面上はメディアを通じて、菅内閣を擁護する発言をすることになるであろう。世の中は、そんなものである。
人間ある程度の年齢になると、考え方や物の見方は変わらないものである。それは菅氏も私も同様だ。しかし総理大臣としての菅氏の見識は我々庶民と比べても大して立派なものとは思えない。むしろ劣っているのではないか。別に私は菅氏個人に恨みがあるわけでもないので必要以上に批判したくはない。菅氏などどうでも良いのである。これからの日本の政治が大切なのだ。鳩山氏の意味不明な理想主義と菅氏のいやらしい現実主義はどちらもどちらで甲乙付け難いし、足して2で割れるようなものでもないが、もう少し大局観、品性、知性、行動力、勇気を備えた人間はいないものか。
とにかく早く辞めてくれ。顔も見たくない。せいぜい奥方と一緒に、残された余命の時間を少しでも引き伸ばしてくれそうな、緑の薔薇をプレゼントする相手でも探すことだな。日本にはいないぞ。