龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

選挙になど何の意味もない

選挙や政権交代で何一つとして日本が本質的には変化し得ないのであれば、我々有権者は政治にどのように向き合えばよいのかということになる。異論、反論が多いであろうことは承知の上で言えば、先ず、投票になど行くなと言いたい。地方選挙はまだ地元や地域に密着しているので投票に行く意味や価値は見い出せるであろうが、国政選挙はただのお祭り騒ぎのようなもので、冷静に考えれば本当に投票する意味があるのかわからないはずである。政党がいくつもあってもその中身は自民党の政治しかないのであれば、投票に参加する必要性などないという結論にはならないであろうか。衆議院選挙や参議院選挙を1回、実施するのに600億円もの公費がかかっていると言われているものである。意味のない国政選挙に対して湯水の如く、我々が納めている税金が蕩尽されているものである。私は、この馬鹿げた選挙というイベントさえなければ、日本の財政収支は確実に健全化へと改善していくものだと考えている。極論ではあるが国政選挙がなくとも、或いは国会議員が皆無であっても、必用な時には官僚が政治の役割を兼務すればよいのであって、それでも日本と言う国は恐らくは何の支障もなく回っていくはずである。馬鹿なことを言うなと叱られるかも知れないが、そのような事態や状況を想像しなければ、日本の政治の本質と言うものは見えてこないということを私は言いたいのである。もちろん私が何をどう主張しようとも、日本から選挙がなくなることはないであろうし、投票に行く人は必ず行くであろう。その程度のことは私にもよくわかっている。大体、こういうことを言っている私自身が結局は投票に行ってしまう可能性が大である。しかしこういうことは言えるのではないのか。これまでの日本の民主主義とは、我々有権者から見れば、選挙の時だけの一時的、形式的な政治参加でしかなかったものである。選挙の後は、政治とマスコミが民意と言うものを無視したり、操作、誘導しながら好き勝手にというか、現状の既得権益が毀損されることなく維持され続ける虚構の民主主義が、ごく一部の限られた者だけで作り上げられてしまっているのである。そういう理解の上に立てば、私が言っている意味も少しは理解していただけるのではなかろうか。選挙だけの政治参加から我々国民の意識を反転させる必要性があるのである。そもそも選挙といっても、候補者の何がわかるというのか。ほとんどの有権者は、候補者のことも政党の政策や政治の本質など何ひとつとしてわからないままに何となく投票しているものである。そして選挙の祭りが終わってしまえば、国民の手から政治が離れてしまって、雑踏の中で迷子になってしまった子供のような気分を味わわされることとなるのだ。だから反転させると言う意味は、選挙の投票になど行かなくてもよいから、選挙後の政治の質やマスコミ、政治、司法などを含めた全体性の問題をきちんと俯瞰して見極める知性なり意識を持たなければならないということだ。それが日本の本当の民主主義の第一歩なのである。私が何度もブログ記事で問題にしているような感覚を多くの人に共有していただきたいと願うものだ。だって誰が考えてもおかしいでしょう。加計学園の問題にしても、稲田防衛相の発言にしても、首相の選挙演説の「こんな人たちに負けるわけにはいかない」という発言が問題になることにしても、そういうことは政治とマスコミが作り上げている民主主義でしかないでしょう。なぜ総理大臣がレイプもみ消しに関わっている疑惑に対しては、野党もマスコミも黙ってしまうのか。そういうことに対して何の疑問も義憤も感じないような感覚で、投票になど行ったところで果たして何の意味や意義があるというのであろうか。我々日本人は、民主主義云々以前にもっと人間らしい意識や感覚を取り戻すべく覚醒しなければならないのだ。先日、コンビニでケント・ギルバードさんの『日本覚醒』をちらっと立ち読みしたが、まさにギルバートさんの言っている通りである。日本人は未だにGHQの洗脳に縛られているのである。こういうことを親日家のアメリカ人に教えてもらわなければならないということは、日本人として本当に情けないことであり、立ち読みしながら思わず涙が出そうになったものである。