龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

占領政策の自己増殖

日本人の意識が大きく変化したのは、言うまでもなく戦争の敗北を受け入れた直後である。広島と長崎に原爆を落とされて、日本全体が焼野原となり、多くの民間人が殺されて、生き残った人間も食う食わずの惨状であったのに、GHQのマッカーサー進駐軍がやってきて占領政策が開始されると、どういうわけか日本人は抵抗したり、反抗する訳でもなく、むしろ熱烈に受け入れる態度に翻ったものである。この日本人の心境の変化はどのようにして説明されるものであろうか。そこには深い意味などなくて、単に猿山のボス猿が交代した程度の追随でしかないのかも知れないが、ともかくもその時点において日本の民主主義が誕生し、出発したことは紛れもない事実なのである。御大層に日本の民主主義などと金科玉条のように理念や思想の拠り所にしたところで、所詮はその程度のものなのだ。アメリカの軍事力にそれまでの日本の信念体系を破壊されて、一夜にして移植されたものである。よって民主主義とはいっても、元を糺せば本当の意味での民主主義とは言えない性質のものなのである。そしてその性質が戦後70年経過した今日にあって、少しでも成熟なり進歩しているのかといえば、何一つとして変化が見られないものである。むしろ後退しているぐらいである。なぜ後退なのかといえば、アメリカの占領政策は戦後何年かの内に終了しているはずのものであるが、その後の日本の政治とはアメリカの属国であるとか傀儡政治などと言われ続けてはいるが、そうではなくて、江藤淳氏の言葉で言えばアメリカの占領政策を日本が戦後一貫して「自己増殖」させ続けてきた結果なのである。日本の政治や司法、マスコミなどの全体が一つのシステムとしてアメリカが移植した民主主義を日本と言う国家の体内に消化させつつ、絶えず自己増殖させている束縛なり、呪縛から未だに離れられていないということ、むしろその傾向性が薄くなるどころか濃くなってきていることが、前進ではなくて後退しているということなのだ。三島の自決などもそういう日本の状況を憂いたものであることは間違いないと思われるが、三島の死からも既に47年も経過しているというのに何も変わっていないものである。だから日本では、本当は「民主主義」という言葉が最も虚しい響きをもっているのである。実体的には民主でも何でもなくて、アメリカの占領政策の延長上にあるシステムなり均衡のバランスが、アメリカの圧力ではなくて日本の意思で保守、管理されているという構図がここにはあるのである。そしてその構図を書き換えていくにはどうすればよいかということが、つまり本物の民主主義を構築していくということだが、日本の大きな課題なのだが、それはそんなに生易しいことではないのである。前回も進化論でたとえた通りに、今の日本は千年も一万年もこの状況が継続したとしてもおかしくはないような有様なのである。それは反米であるとか自主独立を訴えている知識人などが、実はアメリカが作り上げた日本の民主主義の考え方や全体性に飲み込まれてしまっていて、自縄自縛に陥っていることからも明らかなのである。選挙や政権交代では何も変わらないのだ。本当に大切なことは、三島が命を捨てて訴えたように精神と意識の在り様にしかないのである。システムや制度の問題ではないのだ。意識と心が全てなのである。