龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

意識の進化と民主主義

一口に民主主義と言っても、私は「多数決」の原理で世の中がよくなっていくとは考えてはいない。選挙は多数決そのものだが、選挙を千回、一万回、繰り返していけば社会は、進歩していくのであろうか。そうではないだろう。進化論と同じだと思う。種は個体が交配を重ねながら、気の遠くなるような長い年月をかけて、適者生存と突然変異のメカニズムで進化してきたと説明されているが、連続的に均等に変化してきたものではない。ミッシングリンクなどと呼ばれる通りに、それまでほとんど変化の見られなかったものがある時、突然に堰を切ったように、非連続的に変化していくものである。そのようにして爬虫類の前足が羽に変化して鳥類になったり、哺乳類に進化していったものである。なぜかはよくわからないが、変わらない時には数十万年かけても変わらないものが、変わるべき時には極端に言えば一夜にして変わるのである。私は政治も同じだと思う。種の進化も社会変革もいつかはわからないが、変わる時は必ずくるのだし、変わらなければならない時に変われないものは、生存競争に敗れて滅亡していくだけである。このような説明をするとナチズムの社会思想を連想させるものとして危険視されたり、排除されるべき考えだとみなされるかも知れないが、別に私は特定の民族を劣等視したり、迫害するような政治を正当化するつもりで言っているのではない。民族とかイデオロギーの問題ではなくて、人間であるとか社会の変化の相を正しく見ようとする視点があれば、今の日本の状態も少しはわかってくるのではないかということだ。戦後の日本と日本人は、変わることが悪で、変わらないことが善だというように植え込まれてきているので、基本的には変化のない時間層の中にある。これは憲法9条であるとか軍事や安全保障の問題だけでなく、実は司法であるとか、政治、マスコミ情報、教育など全ての「全体性」のバランスなのであって、その一つの均衡した。或いは硬直化したといってもよいかも知れないが、全体性のバランスが世界という環境変化の中で、生存に適さなくなってきた時に、さあそれではトカゲの前足が羽になるかのように自らも変化して空に飛び立てるかと言えば、それは大変なことである。まあ1万年とまでは言わなくとも、日本の政治も500年ぐらいの猶予が与えられれば、進歩なり進化し得るかもしれないが、そこまで日本という国が持ち堪えることができるかどうかとなると、私には疑問である。要するに言いたいことは、日本は全体として変わらなければならない時に来ているのだが、現状のシステムの中の選挙とか多数決の原理では変われないのである。もちろんだからといって専制政治や独裁政治のもとで変わっていけばよいということにはならないが、私の言う「民主主義」とは、多数決ではなくて、民衆の意識が主体となって新しい国をつくる原動力にならなければならないということなのである。内在的な意識が、種を進化へと導くものである。意識は洗脳されている限りにおいては主体とはなれないのだ。奴隷の意識は、あらゆる手段で迫害されるだけの運命なのである。よって主体的な意識に覚醒するという意味合いにおいて、憲法9条の改正であるとか自主憲法の制定も必要であるのだが、なかなか今の政治や報道を見る限り難しそうではある。ともかくも選挙や政権交代では、今の日本は本質的には何一つ変わらないであろうし、日本を取り巻く危険性が払しょくされないということは、理解しておく必要性はあると思われる。