龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

消費者は夢を探している

ライフはダメだな。ライフって、スーパーのライフコーポレーションのことである。昨日、ちょって偵察に行って(といっても私は業界の人間でも何でもないが、単に個人的な偵察である)、衣料品売り場を見てきたけれど、ほとんどが中国製で、中国製以外の商品を探すのが困難なのである。その点、イオンは私がブログの記事で書いたからという訳でもないであろうが、中国製の比率が確実に下がってきていて、日本製はまだわずかだけれど、新興国ミャンマーだとかバングラディシュ、インドネシアベトナム、タイなどの製品が増えてきているものである。中国製商品ばかりの売り場など、はっきり言って夢がない。スーパーの売り場に、夢が必要なのかと思われるかも知れないが、量販店の経営者は大切なことがわかってないと私は思う。スーパーの衣料品売り場に日本製の商品がたくさん陳列されていると、消費者はそれだけでスーパーの商品は価格が安いだけでなくて、品質の良い物が手に入るのだというイメージを持つことができるのである。また日本製でなくても、新興国のアジア各国で作られた物がたくさんあれば、アジアの途上国が活気を帯びてきて、少しずつでも豊かになっていっているのだという事実を、シャツとか靴下とかパンツを手に取りながら実感として味わうことができるのである。そしてそのような売り場には、ぱっと光が差し込んできたような明るさが感じ取られるのである。ところが中国製ばかりの商品だと、何だか人権侵害の抑圧的な雰囲気に覆われているようで、光どころか気分が滅入ってしまうのだ。自分で言うのも何だけれど、そのような感覚は詩人的な感性に根差したものだと思われる。私という人間の本質は、詩人であるというところにあると考えられる。そのような詩的な感性と経営は別物だと反論されるかも知れないが、果たしてそうだろうか。必ずしもそうではないと思われる。たとえばマーケティング論で考えても、従来は大衆的なスーパーマーケットと高級品のデパートは消費者の棲み分けが、画然となされていたように思われる。だからスーパーで売られている衣料品などの売り場が、デパートを意識されるようなことなどまるでなかった。そういう私自身、1~2年前まではたまに服を買う時にはデパートでしか買わなかったものである。確かにデパートで売っている服は、たとえ中国製であってもデザインとか生地や縫製などの質がそれなりに高いとは思われる。しかし最近では、デパートで中国製の服を1万円以上の金を出して買うのであれば(冬物のコートなどであれば3~4万円以上にもなるが)、スーパーで日本製のものを探すか、日本製でなくても中国以外のアジアの新興国で作られた物を買う方が、心理的な満足度が高いというか、気分がよいのである。この感覚は私だけのものであろうか。仮にそうだとしても、これからの日本はもっと目先の利益であるとか、計算だけではなくて、そのような詩的な喜びであるとか、美しさの追及を経営や売り場に取り入れていって欲しいものだと思う。そしてそれが日本という国や、日本人が全体として再生していく道なのだと私は考える。人生もまた同じだと思う。人生は困難や不条理に満ちているけれど、詩的な感性というものがあれば、それらの困難や不条理をユーモラスな目で見ることもできるであろうし、自分だけの問題としてではなく、社会や世界全体の本質を追及するという姿勢を持つことによって、錯覚かもしれないが天使に見守られているような心の安らぎや癒しを感じることができるものである。私はそのような感覚なり視点を一人でも多くの人と共有することによって、この日本を変革していかなければならないと考えているのだ。私はどんなに値段が安くても、当たり前のように人権侵害が行われている国で作られている物を身に着けたり、使いたいとは思わない。気分が滅入るだけだからだ。先の話しに戻るが、スーパーだって意識を変えればデパートと競合できるのである。消費者はゴミと成りゆく物をもとめているのではなく、夢を探しているのだ。今後の健闘に期待したい。