龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

脱皮が必要な日本の民主政治

空が啼く 風木々が啼く 蝉の声
今一かな。わかり難いし、才能なしだな。まあ俳句の出来はどうでもよいのだが、何を言わんとしてしている句なのか説明すれば、蝉や蝉の鳴き声というものは、この現象世界の中で、一個の単体として背後の環境から分離して存在し、好き勝手、気儘に時を選んでうるさく鳴いているように見えるが、そうではないということである。一匹の蝉が鳴く前には先ず空が啼くのである。それから風が啼き、木々が啼いて、個体を超えたより大きな存在から連鎖的に声なき声が降り立ってきた時に、一匹の蝉はそういう自然の動きに感応して鳴き始めるというか、そのように私には見えるということを表現したものである。それで私がこうしてブログの記事に作成している声というものも、蝉の鳴き声のようなものだと思うのである。まあ私は蝉とは違って、メスを求めて鳴いている訳ではないが、人によっては日本の腐敗や堕落を憂いて一個の人間が声を大にして変革を訴えたところで何がどうなる訳でもないし、現状の社会システムに適応してそれなりに満足している人々からすれば、私の主張は、蝉の鳴き声同様にやかましく、鬱陶しいだけに聞こえるかも知れない。しかし私の声以前には、やはり心の耳を澄ませば、空や風、草木の声に相当するような未だ顕在化はしていない、或いは抑圧されている日本の全体意識なり、集団心理というものがあるはずである。だから私の表現なり主張は、表面的にはきわめて政治的な性質のものであるが、本質的には芸術衝動に近いものなのである。芸術的な感性や感覚を持っている人には理解していただけるのではないかと思うのだが、何をどのように主張するか、表現するかという内容や技法の選択は私個人のものであるが、ある時にまさに蝉が鳴くように、何かを表現しようとする衝動性というか、自分を奥底から突き動かす力というものは自分のものではないのである。私は自由意思によってその衝動性を自分の表現によって一つの形に作り上げることもできるし、沈黙を保って表現しない態度を取ることもできるが、自分以外の何かが自分の内部に入り込んできて精神化されることについては、自分という一個の存在のアイデンティティーなり魂の性質と深く関連していることであって、それが生命力なり生きる意味にもなっているので否定することはできないのである。私のようなタイプの人間にとっては、この自分の内部に侵入してくる他者性なり異物をどのように消化して、或いはどのように表現したり、生かしていくかということが人生において大きなテーマであり、道になってくるものと考えられる。一般的には芸術的な衝動性が、絵画なり音楽などの分野に向けられている時は問題にはならないが、それが政治と結びつくと危険視されることが多い。例を上げれば、まあ三島由紀夫タイプだな。天才というか、要するに自分の内部に他者性なり全体的な豊かさがなければ、結局は何をどのように美化したところで最終的には利己主義を正当化するための詭弁にしかならないのだと思う。私は三島のような天才とは違ってただの凡人だが、そういう精神の傾向性はわかりそうな気がするものである。いずれにせよこういうことを言えば、朝日新聞などの左翼がまた怒って、言論テロのような偏向報道活動を再開しそうな危惧があるものだが。しかし私は左翼とか右翼の区分には何の意味もないと思うんだよな。イデオロギーの問題ではなく、全ての人間が自分という存在の内部に他者性と自己性をうまく調和させながら全体的な利益を追求していく姿勢は必要だと思う。人間はあまりにも政治的になり過ぎると、政治が自然から乖離してしまって空や木々の啼き声を聞き取る能力がなくなってしまうのだと思われる。だから自分のことだけを考えて、どのように鳴けば利益になるか、評価されるかということだけが行動基準になってしまうので、結局、政治やマスコミに操作されるだけの対象になってしまうのではなかろうか。はっきり言って、今の日本人は去勢され過ぎていると言える。だから政治的な主張の内部に多少の芸術衝動や霊感の如きものがあったとしても、その人の品性や知性のレベルにもよるが、それ自体を問題視しすぎていると日本という国家や日本人全体の生命力の低下にしかならないと私には思われる。左翼の言論はすぐに政治を芸術的なものと混同させると、偏狭な民族主義全体主義に陥る危険性があるなどと訴えるものであるが、その指摘は今の時代の日本において本当に当てはまるものであろうか。マスコミは都合勝手な情報操作ばかりを繰り返して、民主主義を根底から破壊しているくせに、よくもそんなご立派なことが言えるものだなと呆れるばかりである。確かに政治と言うものは独善的な美意識のもとで追及されるとヒットラーのナチズムのように過激な思想に突き進んでしまう危険性はあるが、戦後の日本は対外的には自分の国のことも独自に決められないような独立国家ともいえないような状態を継続させているものである。よってその内発的なバランス感覚において日本の自主精神や民族主義が唱えられることは必然なのであって、それが戦争に突き進む国家になるなどという論理は飛躍が極端過ぎるものである。むしろ自主精神を持ち得ない国家だからこそ、攻撃への威嚇に晒され続けたり、実際に攻撃されたり、戦争に巻き込まれる可能性が高いと言えるものである。蝉の例えで言えば、戦後のそのような左翼、右翼のイデオロギー区分から脱皮できていないゆえに、日本の政治はいわば未だに土のなかの幼虫のままで、木によじ登って鳴く段階まで行っていないのである。だから空や風や木々の声が聞こえなくて当然なのだ。我々日本人は今こそ自然に立ち返っていく必要があると思われる。老子の道の思想がここにはある。ただひたすらに道を見つめて、そこに没入すれば弱者は強者に転ずるものである。イデオロギーの区分も何の意味もない。そのような道の思想を追及する生活の中で我々日本人が生きていく上で本当に大切な民主主義の声を育んでいかなければならない。