龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

死者の視点と生者の生活

死者の視点ということについて、前回の記事内容を補足的に説明した方がよいように思われる。言うまでもないことだが、私はどこかの山奥に籠って、浮世離れした仙人のような日々を過ごしている訳ではない。都会の中で仕事をして、経済活動に参加し、金儲けをしたり、金を消費したりしている。日々、洗濯だとか、買い物や、仕事の支払い、事務処理などに追われて一日をあっという間に終えている。ゆっくりと本を読む間もないが、できるだけ読書をする時間は確保するようにしている。それから仕事の合間にFXをしたりもしている。そういうことを言えば、前回、私が私と世界との関係性について、この世界から果実をもぎ取るように何かを得ようと考えてはいない、積極的、実存的に世界と関わろうとしていないという以上にある意味ではもう既に死んでいて、自分の中核に存在するものは死者の視点であると述べたことと矛盾しているではないかと思われるかも知れない。FXで利益を追求することは現実から果実をもぎ取る試みなのではないかと。確かにその部分のみで見れば矛盾していると言えるであろう。しかし屁理屈や言い訳のように思われるかも知れないが、仕事をしたり、FXをするようなことは、その他の日常の雑事も含めて全ては、生活の範疇に属することである。この世に肉体を持って生きている限り、生活から逃れることは出来ない。そして何よりも肝心なことは、人生において「生活」するということは、決して死者の視点ではあり得ないというか、成り立たないということである。死者の視点でぼんやりと夢見るように現実を眺めているならば、間違いなく生活は破綻してしまうものである。生活とは、絶対に生者の視点でなければならないものだ。それならば哲学的な問いかけになるのかも知れないが、人生とは生活のために存在するのかということである。私は日々、生活していて、生活に追われているとも言えるが、自分と言う人間の本性なり本体は、生活者だとは考えていない。毎日、忙しくて本当はぼんやりなどしていられないのであるが、それでも生活している自分自身とその環境である世界をぼんやりと傍観する死者の視点と言うべきものがある。そしてその死者の視点こそが、本当の自分であるように私は感じているということだ。別に私は精神的に分裂している訳ではない。十分に統合していると私は自覚している。生活している私は、確かに実存的にも社会的にも生きているのであるが、ある意味においては仮初めの私である。仮初めの生活者である私を死者の視点で認識するもう一人の私が存在する。その俯瞰の構図で言えば、生活者とは単に生活に勤しんでいるだけで何も見えていないし、何もわかっていないのである。木の葉が川に落ちて流れるように無力な存在に過ぎない。

そこで前回に述べた武士道の話しになるが、武士もまた生活する者である。しかし生活するだけの存在ではないと自負、自認する者でもある。映画『必死剣 鳥刺し』を見て感じたことだが、豊川悦司の演技にはそういう武士の、上方から自分自身を見つめる視線のようなものがあって、それが武士としての凛とした佇まいであるとか品格を表現しているように思えたのだが、一流の役者はそういうことが自然とわかっているのだなと感心したのであった。武士道における精神性とは、死を織り込んだ視点で自分の存在を俯瞰し、認識するところにあるのではなかろうか。そしてそこに道が生じる。しかし人生において死生を問わず、生活を離れた別の視点を持つには、それを持てるだけの最低限のゆとりや余裕が必要であることも事実である。『必死剣 鳥刺し』は江戸時代の武士を描いたものであったが、江戸時代は平和で安定していたので、武士は豊かでなくとも権力に翻弄されても武士道を追求することが出来たのであろう。それが戦国時代であれば、日々、戦乱の殺し合いの中に日常生活があったので、自分を俯瞰して再認識する別の視点など持てるはずがない。または江戸の世ではあっても、武士ではない農民は過酷な年貢の取り立てに苦しむばかりで、そういう生活から離れた視点を持つことなど想像だに出来なかったことであろう。要するに時代や身分を問わず、余裕やゆとりがないほどに目の前の現実や生活に閉じ込められる度合いが大きくなるということである。そしてそうなるほどに人間は物事の道理や正邪から離れて、力の論理に従わざるを得ないなってくるものである。正しいことが正しい、間違っていることが間違っていると言えなくなってくる。人間がどんどんと卑しくなって、力や金のある者に媚びへつらって取り立ててもらうことしか考えられなくなってくる。江戸時代のように武士が切腹を覚悟で殿様に諫言したり、農民が百姓一揆を起こして鎮圧され首謀者が晒し首になるようなことは、今の時代にはあり得ない。確かに今は身分制度もないし、社会全体も安定していて平和ではあるが、人々が目の前の現実や生活に囚われる度合いが増してきているのではなかろうか。そしてそうなるほどに支配者、為政者にとっては都合がよいのは事実である。はっきりと言い切ってしまえば批判や反発があるかも知れないが、単なる生活者は全体を見極める精神を持ち得ていないので、目の前の現実しか見ていないから、情報操作や10万円ほどの支給金でいくらでもコントロールが可能だということである。本来、人間の精神とは自分の存在に向き合うことによって世界の真実に目を見開いていく機能や役割があると思うのだが、そうはさせないように人間を現実や生活の牢獄に権力者は閉じ込めようとしていることは私に言わせれば疑いようがないことだ。コロナの現実も間違いなくその流れの中にある。

(吉川 玲)