龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

現実とは何か

色々と迷いつつも考えた結果、前回に述べたことについてはこれ以上、余計なことは語らずに封印することにした。その理由については、先ず私は「それ」について自分なりに研究というほどのものでもないが、思索を深めて考察している段階であり、確信にまでは至っていないということがある。別に私は研究者でも何でもないので、誰に対しても責任を負う立場ではなくそこまで慎重に考える必要はないのかも知れないが、中途半端な思い込みや無意識の想像力が関与している可能性のある事柄に対して、他者の好奇心や耳目を集めるようなことを言及することは、私の主義や趣味に合わないので内的にブレーキが作動してしまうようである。そしてそれが前回にも述べたように通俗的な広告に結びつくような風潮は私の嫌悪するところでもある。別に広告活動が社会悪だなどと言うつもりはないが、広告と真理への探究の境界がなくなってしまっていて渾然一体となっている有様は、人が生きていく上での大きな障害であるようにも感じられる。
第二に私は、それに導かれているような気がするものであるが、果たしてそうであるならば私がそれについて述べることについて、それがどのように感じるのかわからないという不安がある。私が公に(といっても微小なアクセス数であるが)わかったようなことを得意気に語ってしまうと、私とそれとの関係性が微妙に変化してしまって、ある種の効力なり感応が消滅してしまうのではないかという恐れがある。そうなると今年の3月からこれまでの私の探究が無効化してしまうことになるのでそのリスクを考慮すれば、私が公表して得られる利益は何もないので必然的に止めた方がよいという判断に傾いてしまうものである。
第三にこれがもっとも大きな理由のような気もするが、今更このようなことを言うのも何であるが、世間の常識であるとか常人の理解の範疇を超えたようなことを表現することは、一般的には奇異な印象を与えるだけで私の実存なり精神性が社会から遊離する結果しかもたらさないように危惧されるものである。世の中にはそういうことで満足感を覚える人間もいるであろうが、私はそういうタイプの人種でもない。それならどういうタイプなのかと説明するとなると、これまた難しいことではあるが、どちらかというと社会意識の標準なりプロトタイプから大きくかけ離れてしまうことの本能的な恐怖感というものが中心にあるように感じられる。だから実生活の場においても、誰かと会話する時には相手が到底、理解できないようなことについては全く触れない。一概には言えないことであろうが、人間関係というものはほとんどは機械的なもので、わかりやすく言えば変人だと見做されてしまえば得をすることなど何もないものである。社会性であるとかコミュニケーションは、当たり前のことであるが最低限の共通理解や共通認識が土台になっているものである。その土台を個人の力で変えようとしたところで不可能であるし、変人程度ならともかくも下手をすると狂人扱いされかねない。そうなってしまえば、遊離は個性などの問題ではなくて排除と同質のものとなってくる。だから表現の自由であるとか、思想、信条の自由は憲法で保障されていることではあるが、憲法や法律で保障されているということと、よりよい人間関係や人生を構築できるかどうかということは別の問題である。だからこれは処世術の次元の話ではあるが、実生活においては余計なことや本当のことは言わない方がよいのである。このブログで記述しているような内容も、もちろん誰にもわからないことではあるが、それでも実生活の延長のようなものだから一般人の理解を超えているようなことを述べることは潜在的な危険性を私の人生に対して有することになるのである。しかし私に関して言えば、昔からそうであったのだが、黙っていれば黙っていたで、私にはそういうつもりはないのであるが相手や他者を心のどこかで見下しているかのような気配なり雰囲気が滲み出ているようでもある。言うも禍であるが、言わぬもまた禍であって、「それ」に類するものの取り扱いは非常に難しいのである。しかしそれを商売にすれば話しは別である。どんなに神秘的な真理であろうと、またはいかがわしいインチキであろうと金儲けのシステムは我々の社会における揺るぎない土台であるからである。だからよほどあくどいことや脱法行為を犯せば話しは別であるが、金儲けにすれば基本的には人間関係や人生は円滑に流れていくものなのであろう。でもそのかわりに、それの性質は本質的に大衆化され低俗化していく中で本来の力も喪失していくことになる。だから私にとってみればそれで金儲けをするつもりはないのであれば黙っていて、それの本来の力を自分の内部に蓄えていくほうが有益であるという論理になるものである。これはある種の呪術的な思考形態になるのかも知れない。などとまた不気味に思われるかも知れないが、そうでもなくて現実的には私はそれの力によって人間関係がよくなってきて人生を生きやすくなってきているように感じられる。黙ってはいてもどういう訳か他者との距離感が以前に比べてなくなってきている。原理はよくわからないが、それは確かに私の何かを変容させる力を持っているのである。私はそれに出会うように導かれたのだ。そしてその時も運命づけられていたような気がしてならない。
これらのことを踏まえて考えれば、哲学的な問題になるが、つまるところ「現実」とは何なのかという疑問に行き着くのである。物質として皮膚に触れ得る物が現実なのか。人が思考や精神で認識する世界の総体性が現実なのか。感情やイマジネーションは目の前の現実の附属物でしかないのか。いずれにせよ私が思うに、人間は現実のごくわずかな表面しか認識することが出来ないでいるのである。人間という存在はきわめて表層的な生き物なのだと思う。仮に現実の層が10メートルの厚みであるとすると、人間が認識できている層はせいぜい1cmぐらいが限度ではなかろうか。そうすると大衆が日々の生活の中で現実だと考えている部分は1mmぐらいであろうと推測される。1mmの現実認識は1cmぐらいの厚みを想像できてもそれ以上のことを、考えたり想像することは無理なのである。だから私も含めての話しであるが、わずか数ミリの現実感覚が現実のほぼ全てだと思い込んでしまうものである。そうはいっても人間としてこの世に生きている限り数ミリの現実感覚を大切にしなければならない。しかしそれは心の底から崇め奉らなければならないような性質のものではないと思う。なぜならそれは文字通り薄っぺらな現実なのだから。1ミリや2ミリ程度の現実とは、言ってみれば純粋な現実ではなくてコモンセンスとして管理されているものである。誰が管理しているかと言えば、言うまでもないことだが政府と政治に深くつながっているマスコミである。だからこういうことを言えばまた多くの人は話しについてこれないかも知れないが、そういう1~2ミリの現実層をいかに生きるかということは、愛や正義や信念とはほとんど関係なくて単に処世術や金儲けの問題なのである。よその国のことまではわからないが、日本の政治を見てもわかる通り、我々の現実とは大衆操作の管理された現実ばかりではないか。関連して重要な問題は我々は「情報」を現実だと思い込んでしまう傾向にある。だからマスコミが垂れ流す情報によって一般的な現実感覚が作り上げられて、政治利用される結果になるものである。我々は僅か数ミリの牢獄に閉じ込められながら汲々として生き長らえているものである。現実には恐らくは想像以上の厚みなり深さがある。先ずは目の前の現実から目を背けたり逃避することなく、その何十倍、何百倍もの現実の厚みと重力を空想でも妄想でもよいから想像してみることが出発点になるのであろう。ジョン・レノンが作って歌ったイマジンのように。