龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

迷いの中で

この世に54年も生きていると、色々な発見もあるし、また考えが変わってくることもある。私にとっての発見と変化とは、今年の3月ぐらいのことなのでまだ1年も経っていないが、少し哲学的な話しにあるが、私はそれまでは「物」には一切、貴賤はないと考えていたのである。物は微視的な視点で見れば、単に原子の規則的な羅列によって構成されている集合体で、そこに人間が考えるような精神性であるとか魂が入り込むような余地なり空間があると認めることはできなかったのである。たとえば墓石であるとか、誰かの形見、或いは仏像のような物を神聖視して敬うような姿勢はあくまでも人間側の都合による習俗であったり、感情の問題であって社会的なコミュニケーションを成り立たせるために、それらの物に心や魂が入っているかのように考え、振る舞うことの必要性までは否定しないし、私もまたそういう慣例に従うだけの協調性なり常識は持っているが、それでも突き詰めれば物は、所詮、物なのであり原子の羅列に過ぎないのであって、それ以上の神秘性が蔵されているようなことは、どんなに特別とされる貴重な物にも認めることはなかったのである。それでは人間もまた物に過ぎないのでないかと言われれば、それは違う。私はそこまでの唯物論者ではない。人間には神聖に通ずる魂や感情、思考というものがあるのであって、当たり前のことだが生命は物以上の何かである。生命をタンスや電気スタンドと同列に論ずることはできない。だから私には人間の精神や魂を物から分離して信仰であるとか神仏を思念することはあっても、何らかのご本尊やご神体を習俗ではなくて心の底から有難がったり、崇めるような感受性は持ち合わせていなかった。そういう意味では偶像崇拝云々の宗教的な考え方の違いもあるであろうが、私はどちらかと言えば少なくとも日本においては非宗教的なタイプの人間であったと言えるかも知れない。もちろんそれは信仰の問題や歴史的な価値だけでなく、その物の芸術性の高さや利便性、希少性などによる経済流通上の価値などとも全く別の次元の話しである。そういう要素を一切排除して純粋に物に物以上の意味や力、神秘があるのかどうかと言えば、私はないと考え、また信じてこれまでの人生を生きてきたのであった。しかしその考えがあることで変わったのである。それについて具体的に話しをすると宣伝広告のようになってしまうので、正直に言えば気が進まないし、実は今も迷っている。私が宣伝したところで私自身には何の利益にもならないし、むしろ諸種の理由で不利益が生じるかも知れない。今更のことではあるが、どうして世の中の表現や主張はこうも宣伝広告や政治と密接に結びついて、或いは結び付けられてしまうのであろうか。資本主義社会なのだから仕方ないと言われればそれまでだが、私はうんざりとしてしまうのである。宣伝広告や政治とは全く無関係に純粋に自分が考えること、感じることを自由に述べることは罪深いことなのであろうか。それが罪深いのであれば私は無理をしてまで何も言いたくはないし、沈黙を保っていたいのである。本当のことや、世界や人生の真理に到達する可能性のあることは何も口にはしないで黙っている方がある意味では世の中のためになるのかも知れない。そう考えると、そのように考えるバイオリズム的な周期の中では、私は深く迷ってしまうのである。迷っている、迷っている。夢の中で道に迷うように、枯葉が冬の陽だまりの中で風に舞いながら行き場を探すように、私はいつも迷っている。