龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

隠者の哲学

生きることは、考えること。生きることは、感じること。
要するに私にとって、生きるということは何もしないってことだな。何もしないで生きられるのなら、いい身分ではないかと言われそうだが、そうではなくて実際には日々、仕事もしているし、特に裕福でもない。私のいう何もしないということは、一口で言えば、「生活者」ではないということだ。しかしこれまた矛盾があって私とて生活しているし、生活に追われている部分もあるのだから、そういう意味では生活者であるが、私のいう生活者でないことの定義は、説明が難しいが、どこか哲学的で俗世間とは相容れない感覚が自分自身の根っこにあって、決して好き好んでという訳ではないのだが、そういうものの支配というと大袈裟かも知れないが、内面の声から離れられないのである。良きにつけ、悪きにつけである。一つの個性の在り方とすれば、良い面も悪い面もあるのであろうが、ただ生活者としての観点から見れば、総じて言えば、あまり認めたくはないが、生産性が低い人間に分類されるであろうし、まあ、世間的には甲斐性がないとも言えるであろうし、女性から見ても魅力的だとは到底、言えないタイプである。しかしこればかりはどうしようもないことである。人間誰しもそうであるとは思うが、本当の自分から逃げることはできないし、自分をごまかして生きたところで何がどうなるわけでもない。最終的には本当の自分自身に帰ってこなければならないのだから、偽っても意味がないし、真の自分がどんなに他者と比べて見劣りしているように思えても、そのままの自分を受け入れざるを得ないものである。それで私は、究極の自己肯定のように聞こえるかも知れないが、何かをするために(つまり生活者として金儲けをしたり、出世するということであるが)生きているのではなく、何もしないことが生きることの中心になっている人間のように思えてならない。何もしないと言うことは、一日中寝ているということではなくて、仕事をしたり生活していても、そういうことは私の人生においては表層的な領域のできごとであって、単に心の中で、或いは頭で感じたり、考えたりすることの方がより重要なのである。自分にとってより重要で、価値があると思われる方向に心が自然と赴くのであるからこれは内面的な必然なのである。そして私は、それを誰かに伝えたり、理解してもらおうとは基本的には考えない。だからこのような傾向性の高い私が、生産性が低くて、甲斐性もなく、孤独であることは当然である。またそういう人間は、基本的に寂しい人間でもある。
タロットカードに「隠者」というカードがあるでしょう。わかりやすく言えば、あの隠者の姿が私の本性である。隠者とは何かと言えば、俗世間との交際を絶って山奥に籠ったりして、孤独の内に一生を終える人間である。私は大阪という都会に住んでいて、山奥どころか不便な田舎での生活が好きではないので外形的には隠者ではないが、心の内には隠者性が濃厚にあると考えられる。隠者は孤独で寂しい人間であるだけではなく、不幸というか、不幸とは言いたくはないが、世間的な意味での幸福の概念の対極に位置するようなタイプである。そもそも突き詰めれば、幸福とは何かという定義も難しいのであるが、少なからずそこには「社会性」が含まれていると考えられるが、隠者とは幸福を求めて幸福になれないのではなく、幸福の社会性という構成要素に対して、自ら背を向ける心性が高いゆえに必然的に不幸なのである。まあ言って見れば、世捨て人である。そこに宗教性があれば僧侶の出家という形式になるであろうし、宗教性がなければ孤独な隠者になる。私は思うのであるが、占いには詳しくはないし、大して興味もないが、タロットに隠者というカードがあるということは、人類は昔からどのような地域や文化の中においても、一定割合の隠者が存在したのではなかろうか。隠者という魂の様式は不滅であり、そこには単なる社会からのドロップアウトという意味合いだけではない建設的な意義もあるのではなかろうかということである。それは10年とか20年の時間のスパンで考えても見えない事であろうが、百年とか千年単位の人類史で歴史を俯瞰した場合に、隠者の魂の必要性や価値が垣間見られるものである。言ってみれば、人間の全てが、世間や権力の指し示す幸福の在り方をいつまでも永遠に志向し続けている限りは、人間の精神は、そしてその結果としての社会の性質は変わり得ないものであると見れる。だからそういう方向性に敢えて背を向ける隠者や世捨て人は、将来的に社会変革の可能性となる魂の小さな火種なのであって、そういう火が消えてしまえば、大きな視点で見れば、世界や人類は自らを救済する道を失ってしまう事態を意味することになるのではなかろうか。だから神はいつの時代においても、近視眼的には不幸にしか見えないような隠者の魂をあらゆる社会に配分しているのではなかろうか。
今の日本で言えば、たとえば低俗なバラエティー番組を見てへらへら笑ったり、TVドラマが大衆に見せ示すような幸福の形を万人が追い求めているようでは、やはり日本という国は救われないと思うのである。もちろんそういう表層的に生きている人々を否定するものではなく、むしろ幸福とはそういうものだとも思えるのであるが、どちらが人として正しいとか、偉いとかという次元の問題ではなく、人間世界を構成する魂のバランスの在り方として、世俗的な幸福を否定せざるを得ないような運命というか、そういう星の下に生まれてくる魂が恐らくは隠者なのである。幸福とは必要以上に物事を考えなくてもよい魂の境遇である。そういう人々はその実存的な存在様式そのものが、一輪の花のような価値であり美なのであって決して否定されたり、非難される筋合いのものではない。正直に言えば私はそういう幸福な人々が、心底羨ましくて仕様がない。私のように必要以上に人が考えないレベルで物事を考えたり、本質を追究するような人間は、幸福の社会性を否定するがゆえに自ら不幸を求めて生きているようなものである。しかし何も気取ってそうしている訳ではなく、そうならざるを得ないような運命であり、魂なのだから、それを受け入れざるを得ないものである。それに何も世俗的な社会性だけが、幸、不幸を決める訳でもなく、自らの魂の本性を見据えて、それと共に前向きな気持ちで生きようと受け入れた時点で、幸福と不幸の境界も消えてしまうものである。心に曇りがなくなって、苦悩や焦燥がなく、安定している精神状態が幸福であると定義付けできるのであれば、私の幸福度は高いと言えるかも知れないし、こういうことは一義的な価値評価基準でどうこういえることではないと思われる。よってこういうことを言うのは何だが、幸福になることを追及して、一心に信仰を深めるという姿勢も、気持ちとすればわからないではないが、どうなのだろうか。同じ型の信仰で万人が幸福に近づけると信じるあらゆる宗教は、幸福を絶対的な善と見做し、不幸の相対的な意義や必要性を認めていないゆえに、私には単なる俗人の集団にしか見えない。政治も同じである。本来は政治家こそ、日本の不幸をしっかりと見据えて、その十字架のような重さを真正面から背負っていかなければならないはずである。ところが現実には誰も何も背負ってはいないではないか。国民の目を誑かせて、逃げているばかりではないか。自分の国のことを最終的に自分で決められないような国体に、一体どういう性質の善が存在し得るというのか、答えていただきたい。そういう権力が描く薄っぺらな幸福の観念になど、私は決して浸りたいとは思わない。そこには嘘しかないことがわかっているからである。不幸で充分だ。いまさら世俗的な幸福者になりたいとも思わない。不幸で孤独な隠者で結構だが、政治やマスコミの見え透いた嘘にだけは、魂を売り渡したくはないのだ。