龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

地球的な違和感と不一致

元号の名称なんて馴染めば何でも良いのだろうけれど、「令和」の令が、命令の令というのは、少なからず抵抗感がある。命令の下にある和というのは、いかにも日本らしいのかも知れないが、そういう一つの秩序が幸福感を生み出さなくなってきていることが、今の日本の特徴なり限界と言えるのではないのか。それを敢えて、令和という名称に込められた命令的というか上意下達の言霊を国民に押し付けようとするところがまたいかにも日本(自民党)的ではある。同じ読み方であってもどうせなら「礼和」の方が国民意識に馴染みやすいのではなかろうか。命令と和よりも礼儀と和の方が誰もが好ましく感じることであろう。早速、改名せよと言いたい。今ならまだ間に合うぞ。
さて、どうでもよいことではあるが、私の名前は「玲」と書いて「アキラ」と読む。今まで電話などで自分の名前の漢字を相手に説明するときに、王様の王偏にその右側は命令の令だと言っていたが、これからは令和の令と言うことになるのであろうか。さらにどうでもよいことであるが、私は小さな頃からこの自分の名前が好きではなかった。読み方が難しくて誰も読んでくれない。「レイ」と呼ばれて男か女かも分からないし、中国人の名前のようにも見える。初めて会った人には、アキラと読みますと言わなければならないことが煩わしいし、アキラという語感もどういう訳か自分の名前ではないような気がするので、本当は自分の名前を発音したくはないのである。でも自分の名前なのでどこまでも私の人生に影のように付きまとってくる。そういう名前に対する違和感のようなものは小さな時分だけではなくて、55歳の今もまだ残っている。今もまだ自分の名前ではないような気がするのである。よくはわからないけれど、こういうことはどこかしら人生における不幸の原因になっているような気もする。自己同一性の不一致とでも言うのであろうか。何で馴染めないのかはわからないが、他者に読まれ難い名前というものは、幸福とは縁遠いような気がしないでもない。だから私は自分の息子には誰にでも読めるような簡単な漢字の名前を付けたものである。まあこういうことは易学的な考え方であるとか迷信であるとか、色々とあるであろうが、私が言っていることは自分のこれまでの人生を振り返った感覚的な感想なので、別にこれと言った根拠があって言っていることではない。とにかく幸福とは哲学的に見れば、色々な意味において自分の本性であるとか本体とそれに対する他者や自己の評価が一致している状態である。それがずれている振幅のようなものが不幸を生み出しているのではなかろうか。だから自分の名前が自分のものではないような違和感は、やはりある種の不幸なのである。自分の名前だけではなくて、私は写真の自分の顔や録音された自分の声を聴いても自分ではないように感じられて、あるいは自分が決して認めなくない自分の本性が、炙り出されているように思えてぎょっとすることがある。だから写真は昔から好きではないし、録音されている自分の声を聞きたいとも思わない。そしてそういうことが好きな幸福な人々とは根本的に人種が異なっているような気がする。私は何も私自身が嫌いなのではなくて、単に私の本体が私の名前や顔や声に表徴されている外面性と一致しないように感じられるということであって、それはこんなことを言えば笑われるであろうが、私の宇宙人性とも深く関連しているような気がするのである。この地球は私の本当の居場所ではないのではなかろうか。ああ早く故郷の星に帰りたい。その地においては私は地球的な不一致に煩わされることはないであろう。
平成という響きも31年も年月が経てば誰もが皮膚感覚的に馴染んでくるというのに、私のように55年も地球上で暮らしてきながら、未だに自分の名前に違和感を感じている人間はやはり不幸なのであろう。何はともあれ新しい時代の幕開けではある。しかし私は今後とも、自分の名前にも、命令された和の秩序にも馴染めないことであろう。