龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本のマスコミの下種性について

フジテレビの元局アナで、現在フリーアナウンサーの男性某氏が、人工透析患者に対してブログで暴論を発したことでレギュラーの仕事を全て失ってしまったとのことである。曰く生活不摂生で自業自得の人間に対して、保険適用する必要性はないから全額自己負担にするべきである。無理だと泣くなら、そのまま殺せ、とまで言ったかどうかははっきりしないが、そういう内容の発言であったようだ。私はその人の名前に触れたくない。なぜなら、敢えて個人名を挙げるだけの価値があるとは思えないということと、その人個人の感覚や考え方だけの問題であるというよりも、マスコミ全体に通底する精神性というか、ある種の病理が表れているように思えてならないからである。どういうことかと言えば、テレビ局であるとか、新聞社などの大組織に属している時には、政治的な圧力であるとかスポンサーへの配慮など、いろいろなしがらみや制約があって、自由に発言できないという事情は、我々一般人とは何の関係もないことではあるが、それでも理解できないことではない。それで組織を離れ、フリーになって発言の自由度が高まり、本音が出てくること自体は良いことだと考えられる。その本音が日本や国民全体の公益性に真に貢献する場合はである。しかしこの某氏の発言を考察するに、組織的な制約を離れて飛び出してきた本音の中身は、この人自身の歪みや偏りというよりも、日本のマスコミ全体の志向性であったり、知的レベルを反映している割合が大きいように感じられる。表層的に見れば、某氏の主張には一理も二理もあるのである。それゆえに某氏の発言に理解を示す人が少なからずいるとしても特段、驚くべきことではない。しかし一理や二理の真理だけで、健康を害している人々を見捨ててよいかとなると、そのような主張の本質は、当人の信念の問題というよりは、単なるセンセーショナルなポピュリズムに過ぎないと見られる。そしてそれがいかにもマスコミ的な悪臭に満ちているということである。個人的なことを言わせていただければ、私はたばこを吸わないし、酒も止めてしまったので2年ほどまえから全く飲んでいない。それゆえに私は、ニコチンやアルコールの悪影響で癌やその他の病気になった人々に対して、ある意味では、そういう人は自業自得だから保険適用から排除せよという資格があるとも言える。しかし実際には私は、そういうことは言わないし、言えないし、またそういう風に考えてもいない。なぜかと言えば、その論理はあまりにも短絡的であって、確かに私のようにたばこも吸わなければ、酒も飲まない方が健康には良いであろうが、社会全体の在り方というものを考えた場合、資本主義経済の構成要素として酒もたばこも合法的に認められているし、またそれらの消費によって経済が成り立っている側面も事実としてあるのだから、一個人の生活態度に問題の全てを還元する見方は、行き過ぎであることが明らかであるからだ。同種のことは、パチンコについても言える。パチンコをするような人間に生活保護を認めるなという意見が多い。私は、パチンコをしないし(もちろん若い時にやっていた時期もあったが)、ああいう下らない娯楽で一日に何万円も大切な金を擦っている人間は馬鹿だとも思うが、しかし問題の根本は、金もなく生活が自力で成り立っていない分際でパチンコをする人間であるよりも、そもそもパチンコのような「違法」な娯楽が、法治国家であるはずの日本において放置され続けてきていることではないのか。要するに人工透析も、糖尿病の治療も、酒もたばこもパチンコも全ては同じで、個人の意志の弱さや、不摂生に還元して、ポピュリズム的に社会の在り方を論ずることは誰でもできることであるが、そういう物の見方の根底には権力であるとかマスコミなどの情報強者つまり情報操作できる立場の人間が、真の社会悪を隠ぺいし、或いは無視したまま皮相的に正義を論じている思考回路がそこにあるのではないのか。現状の法治体系が全て善であり、正義であって、あとは一個人の適応能力や節制などの程度の問題ということにはならないはずである。よって本来は、社会体制の在り方と一個人の責任をどう考えるかということについては、そこに市民の精神的な成熟がなければ議論が成り立たないものであると言えよう。ところが日本のマスコミにはそのような成熟が全く見られないという以上に、成熟の芽を摘み取っているようにすら思われる。なぜマスコミが言論における精神的な成熟を阻害するかと言えば、そこに一旦、成熟が生まれてしまえば、言論は自ずと似たような内容のものに収斂されてゆき、右派と左派であるとか、保守と革新などの差異が不鮮明になってしまってマスコミの存在価値が薄らいでしまうからである。単にそれだけのことなのだ。それ以上の意味などないのである。憲法論議も同じである。本当は民主主義の正しい在り方とは、時代に応じて変化、進歩しつつもその時代に相応しい対立軸を見出していかなければならないものであるが、日本はマスコミが、低次元かつ幼稚なポピュリズムで結果的に言論空間を汚染してしまっている傾向があまりにも大きい。マスコミは時代の変化に対応できず、絶大なる既得権益だけを死守しようとする原理に日々支配されているゆえに、自然とそのような姿勢に流されているのである。もちろん一口にマスコミといっても厳密に言えば考え方は千差万別ではあろうが、それでも全てが同一の原理、同種の感覚で操縦されている大型船舶のようなものである。今回の某氏はフリーに転身したからと言って、恐らくその組織的な感覚から抜け切れていないのだと考えられる。またそのことを自覚できるだけの知性も持ち合わせていないのであろう。そしてそのような幼稚な本音が、図らずも日本のマスコミ全体の欠点であるとか、下種性を暴き出してしまったがゆえに、罰せられているように私には見える。