龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

カジノと政治の嘘について

8月22日の記事である大王製紙前会長、井川意高氏の『溶ける』について再度、追加して述べさせていただく。同書は出所後の「文庫特別書き下ろし」が最も興味深く、読まれたものである。何かの因縁なのか、井川氏が刑務所から出所した2016年12月14日の深夜に、衆議院カジノ法案が成立した。2016年12月2日付で朝日新聞が「天声人語」で、カジノ法案反対論を述べるに当たって、井川氏と同書の内容が紹介されたことに対する井川氏の反応が面白い。井川氏は、朝日新聞カジノ法案反対のために同氏がカジノで106億8000万円も熔かせたことをシンボライズさせていることについて、不快感を示しているものである。私はカジノ法案に反対の立場であるが、同書に掲載された天声人語を読むと(長くなるのでここに引用はしないが)、確かにいかにも天声人語が書きそうな内容であり、つまりは政治的な旗色をアピールしている以上の意味があまり感じ取れないということであるが、井川氏の憤る気持ちがわからないでもないことが面白く感じられたのである。しかし、井川氏が同書で述べるところの、「カジノが日本にできれば、どんどんオカネを使って破滅する人が増える」との批判に対して、「なんで他人がオカネを使うことをそんなに心配してくれるの?」との反論は、ずれていると思われる。そういうことではないであろう。赤の他人が自己責任でギャンブルで大損したことに対して、本気で心配したり同情してくれるような親切な人間はどこを探してもいないよ。首をくくる人間がいたとしても、その報道に接した時には気の毒になあ、というぐらいの感想は持つかもしれないが、次の日にはそんなことは誰もが綺麗さっぱりと忘れてしまうことであろう。井川氏の件に関しても、おそらくは何万人もの会社員が仕事帰りの酒席の場で、カジノで100億以上もの金が熔かされたことを話のネタにしたであろうが、その中で井川氏のことを心配したり、可哀そうだと心を痛めるような心の優しい人間は一人もいないであろう。馬鹿な奴だなあ、でもそういう豪快に大損する人間がいるおかげで、金は社会の隅々にまで還流するんだから、何十億も銀行に貯金しているような人間よりもよほど立派だ、などと楽しそうに会話の花を咲かせている会社員たちの光景が目に浮かびそうである。世の中はそんなものである。誰も人のことなど本気で構ってはいられないのである。基本的には現代人は他人の金の損得などどうでもよいことだし、むしろ大損した人間の話しを聞くことは楽しいことなのだ。だから井川氏が言う、何で他人がオカネを使うことをそんなに心配してくれるのか、という感想は、井川氏の立場であればそう考えてしまうことも理解できないことではないが、それでもやはり稚拙である。井川氏は現役で東大に合格できるだけの頭脳を持っていながら、そういうある種の精神的な稚拙さが刑務所に入らなければならなくなった原因のように私には感じられたものである。確かに日本にカジノができれば、破産したり、首をくくって自殺したり、無理心中するような人も現れるというか、今よりも増えるであろうが、本質的にはそういう問題ではない。それは副次的な問題だ。今、ギャンブル依存症の問題が、政治やマスコミなどで取沙汰されているが、依存症が本当に社会的な問題だと認識されているのであれば、何も日本にカジノ場を作る理由などないものである。それでは何で今更、ギャンブル依存症が社会問題として意識化されなければならないかと言えば、国策としてカジノを日本に導入するための地均し的な偽善なのである。本当は誰もギャンブルで破産したり、自殺するような人間のことなど心配も憂慮もしていないのであるが、一応はそういう政治的な配慮もした上で、カジノを日本につくることに相成りました、という正当性の根拠が整えられているものである。だから本当は依存症や破産、カジノによる地域の治安悪化などよりも、そのような政治手法そのものを問題視しなければならないはずであるが、残念ながらそのような声はどこからも上がってはこない。今の日本は大衆だけでなく、マスコミや知識人、財界などもそうなのであろうが、政治の偽善工作に絡め取られてしまっていて、そのために日本の根幹のところがぐらぐらと脆弱になってしまっているものである。カジノの問題は依存症ではなくて、依存症問題はカジノを導入するための政治的な偽善工作に過ぎないのであって、日本のギャンブル行政そのものの瑕疵や整合性の欠如にこそ認められなければならない。だからカジノを批判するのであれば、パチンコや競馬の在り方も同時に一貫的に見直されなければならないものであり、同書においてカジノよりもパチンコや競馬の方が悪どいと井川氏の指摘はある意味では正論だと思われる。しかし現実的にはたとえばパチンコなどは売り上げが減ってきているとは言え、それでも20兆円以上もの規模があって、もうこれは市民権とか既得権という以上に日本と言う身体の隅々にまで張り巡らされたカネの流れの血管であって、そう簡単に禁止したり、廃止できるようなものではない。ここまで放置した政治に責任があることは言うまでもないことだが、本来は政治がどうにかしなければならないことであるが、それがどうにかできるような政治であれば日本人の苦労など元からないものである。要は政治も新聞の社説も日本は全て法律の整合性や市民生活の道徳観を無視した偽善や詭弁だけで成り立っているのであって、我々一般市民の側から見れば、政治やマスコミの偽善の土俵上で何かを論じたところで何の意味もないのである。ギャンブル依存に陥る人間は自己責任ではあるが、それは副次的な別の話しであって、依存症の問題を政治が大きく取り上げたからと言って、カジノ導入が正当化される根拠にはならないのだ。カジノとパチンコを比べてどちらがどうで、どちらがより悪どいかということも今、論ずべきことではない。先ず我々は、政治を正しく見ると言うこと、政治の操作と嘘を見抜く地点から出発しなければならないのだ。