龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

快楽主義と人間の幸福について

まだまだ暑いが、それでも外を歩いていると身体に受ける風の中に峠を越した秋の気配が微かに感じられるようになってきたので、少しずつではあるが元気が出てきた。私の短い夏休みは、そろそろ終わりである。何か言わねばならない。何も言う必要性はないにせよだ。それで思うことは、生きることは、私にとってではあるが、魂の苦悩と夏の暑さに耐えることである。私は夏の暑さに弱いのである。などと言うと、何かしらストイックな苦行僧のようなイメージを持たれるかも知れないが、そうではない。私はどちらかと言えば、本来の意味でのエピキュリアンである。エピキュリアンとは、説明するまでもなく古代ギリシャの哲学者であるエピクロスが説いた思想で、現代では人生において快楽を全面的に肯定し、快楽を貪欲に追及するような生き方であるように捉えられているがそれは間違った理解である。エピクロスが肯定した快楽(欲求)とは、人間が生きる上で最低限、必要な欲求だけで、それは空腹を満たしたり、睡眠を取ったり、雨風を凌げる住居を求めるようなことであったのである。それ以上のたとえば財産や地位を追い求めたりであるとか、セックスや酒などに耽溺することは心の平静を乱す快楽であるとして否定されていたのである。そしてエピキュリアンは社会にはそのような有害な快楽が多過ぎるから、「隠れて生きよ」と説き、実際に弟子たちと共に世俗から離脱した隠遁生活をしていたということである。だからエピクロスの思想は、一般的な理解とは正反対に仏教との共通性があって、出家に似た生活をしていたのである。エピクロスの言う快楽とは、身体に苦痛や不快がなくて、精神が平静であるということであって、その状態を「アタラクシア」と呼び、人間が幸福を得るための必須条件としたのである。因みにストイックと言う言葉は、エピクロスと同時代のストア哲学に由来している。エピクロスストア派の違いは、ストアが感情を病める理性として脱感情を説いたことに対し、エピクロスは感情を倫理感の中で重要に位置づけたことであると言われている。だから正確にはストイックという言葉は、欲望ではなくて、感情を否定しているんだな。果たして感情が病める理性なのかどうかはともかくとして、私は本来のエピクロスの思想は現代でも十二分に通用する、いや現代社会であるからこそその真価が認められなければならない教えだと考えている。エピクロスが最も重視したものは何よりも心の平静であって、それが生きるということの幸福の土台なのである。そしてその心の平静を保つためには必要以上の不自然な快楽や、自然であっても有害な快楽は遠ざけなければならないということである。現代の我々の生活に当て嵌めれば、束の間の快楽を追及する余り、暴飲暴食で健康を害してしまって、糖尿病や癌になったり、病院通いの薬漬けの生活になってしまえばとてもではないが幸福とは言えない。金の増加を追及して逆に借金の支払いに追われる日々になれば、そこには心の平静など持ち得るものではない。ギャンブルも全く同様で、依存症に陥ってしまえばそこには幸福とは対極の破滅しか待ち受けてはいない。酒やドラッグやセックスも皆、同じである。性的な快楽や異性の愛を得ることに執着するあまりに道を踏み外してしまって警察に捕まったり、経済的に破産してしまう人間の何と多いことであろうか。なぜそのようなことになるのかと言えば、結局のところは、目の前の快楽を追及するあまりに心の平静を失い、正常な判断力が働かなくなってしまっているからであろう。人それぞれ個性やタイプが違うと言ってしまえばそれまでだが、私のように目には見えない精神的な価値を最上位に置く人間は心の平静が乱れることを極端に忌み嫌うものである。そうは言っても私とて、いや私が人よりも理性や節制のある立派な人間だなどと言いたい訳ではないし、そのようなことは謙遜でも卑下でもなく全く思ってはいないが、同時代の同じ情報空間に晒されて生きていると、世俗的な快楽、つまり心の平静を喪失するような快楽を追及したくはなるものである。だからエピクロスの言うところの、「隠れて生きよ」という言葉が心に響くものである。響くという以上に実際に私は、物理的には都会の真ん中で生きてはいるが、魂の次元では正に隠れて生きているようなところがある。それが今の時代を生きていく上で、正しいのかどうかと言えば、よくわからないが、適しているか不適かという区分で言えば、明らかに不適であるように感じられる。なぜならこれも言うまでもないことだが、資本主義経済というものは、大衆が快楽を求める志向性を最大限に高めることによって成り立っているものであって、生活における家族などの人間関係やコミュニケーションもその余波によって多大な影響を被っているからである。よって私自身は必ずしも欲望を否定したり抑圧しているつもりはないが、それでも何よりも心の平静により大きな価値を認めるようなタイプの人間は、世間的には理解され難いところがあるし、概して評価も低いということにならざるを得ない。資本主義経済下のモラルとは不思議なところがある。人間の欲望を果てしなく刺激することによって大量消費や投資などの経済規模を維持させながら、法律や社会規範に少しでも背くと、必要以上に厳しく罰せられるところがある。まあそういう操作によって全体としてのバランスを保っているのであろうが、それでも社会は基本的には人間が必要以上の快楽や欲望を追及して、心の平静を乱すような構造に作られているものである。そしてその中で政治とマスコミが管理者になって報道することと報道しないことのタブーが選別されたり、既得権益層の利益が損なわれないよう網の目をくぐるように微妙に国民道徳が醸成されてゆくものである。よって法治主義などと言っても、よくよく自分の頭で考えれば、何が正しくて、何が間違っているのか本当はわからないものなのである。社会の中で全ての人間は自主的に自らの理性や判断力で、批判したり評価しているつもりであっても、実際のところはそう考えるように様々な法律や規範、情報によって誘導されているものであって、まあそういうことはいわゆる構造主義哲学の分野ということになるのであろうが、いずれにせよ私のようにエピキュリアンの本来の意味なり価値を唱道するような人間は、ある意味では社会にとって有害であり、排除とまではいかなくても無視されなければならない存在である。世の中には注目してもよい人間とそうでない人間の二種類がいるのである。しかし今の時代の人間(特に日本人)は、表層的な価値と人間が生きていくうえで本当に大切な価値を区別して学び始めているようなプロセスにあるようにも感じられる。だから時代に敏感な若者は徐々にTVや新聞から離れていっているようにも見える。しかしそれに変わり得るようなものが発生してこないというところに停滞の原因がある。政治やマスコミは国民の意識を既存の型につなぎとめようとして、絶えず変革の芽を妨害しようとするからである。そのせめぎ合いの均衡の中に我々の意識はある。今はそういう時代なのである。ただ私が強調したいことは人生の中で快楽や欲求をどのように位置づけようとも、ある種の精神的な強さがなければ生きていけないことは事実だと思うのである。それでは強さの正体とは何かと言えば抽象的になってわかり難いが、反対に弱さの本質を考えれば見えてくるものがある。現代社会に生きる人間の弱さとは、「溺れる」ことである。ギャンブルに溺れたり、愛欲に溺れて人間は自制心が効かなくなって、時には破滅にまでゆきついてしまうものである。海に溺れる遭難者を考えればよくわかるが、一旦そのような状態に落ち込んでしまえば意志や理性など何の意味もなくなってしまうものである。単にもがいて溺れる死ぬだけである。それでは何で溺れてしまうのかといえば、自分を取り巻く環境を客観的に評価できなくなってその場に取り込まれていくからだと考えられる。だから反対に見れば、強さの正体とは意志力や精神力ではなくて、自らが溺れていくプロセスや環境の罠を客観的に距離を置いて見極める知性のようなものだと思われるものである。政治はカジノ法案を考えてもわかる通り、合法的に溺れる人間とその不幸を作り上げていくものである。一方で1000点100円程度の低レートで仲間内で麻雀をしても脱法行為として、運が悪ければ罰せられたり、社会的な地位を失うことにもなりかねない。だから元々、社会秩序というものにはご都合主義の支配の型があるだけで、そこには整合性であるとか道徳の観念などというものはないものである。自分には何の責任もないのに誰かの連帯保証人になったばかりに自殺にまで追い込まれる人間が多いことも同様である。或いは愛欲の果ての事件などにも言えることであろうが、社会を客観的に相対化させ、距離を置かなければ見えてこないことはあまりにも多いし、心の平静を失って不幸になっていくだけである。極論すれば政治の作用とは、意図的に人間の不幸を生み出すところにある。特に日本の政治はその傾向性が強いが、ほとんどの人にはそういう肝心なところが見えていないのである。だからこそエピクロスのいう隠れて生きよと言う言葉は、今の日本において重要な意味を持つのである。