龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

怒りへの失望

小説を映像化した映画は、原作を読んでからでなければ見たくないので、いつものようにAmazon吉田修一氏の『怒り』上下巻を購入し、読み終えてから先日、映画を見てきた。小説の方は、なかなか読みごたえのあるいい小説だと思った。吉田氏の作品は、『悪人』でもそうであったが、文章表現が素直と言うのか、引っ掛かりがなくすーっと読み進めていくことが出来て、ちょっと大げさに言えば身体の隅々に行き渡るような感覚を感ずるものである。それでいて決して軽くはなく、純文学的な余韻であるとか味わいもきちんとあって、その辺の読みやすさと、テーマの重さのバランスが優れた特徴になっているように思われる。重たいものを軽く表現することは、才能を要することであろうし、今の日本にも合っているのかも知れない。
映画の方は、監督の李相日(リ・サンイル)という人は、これまでの作品を見てもかなりの力量があることは間違いないであろうが、この映画に関して言えば明らかに失敗である。それも大失敗であったと言えよう。何が悪かったのかと一口で説明するのは難しいが、私が見た印象では、とにかく全体的に「空回り」しているというように思われた。映画というものは、恐ろしいもので空回りしてしまうと、その空回りの無駄な動きや消耗がよく見えてしまうものである。それで見るに耐え難いものとなってしまう。役者も豪勢に有名どころを揃えてはいるが、全体的に演技が過剰気味であり白けてしまった。そもそも、この小説を選んだこと自体がミスチョイスであったようにも思える。小説の『怒り』は、一件の殺人事件との関連性において、複数の登場人物の心理を同時並行的に描いていくものであるが、映画でそれを表現しようとしても、どうしても散漫になってしまって、一つ一つの重要な登場人物の心理が消化不良になってしまうものである。恐らくはこの映画を原作を読まずに見ても、原作の良さだけでなく筋書きそのものもよくわからないのではないであろうか。そういう原作を映画化の対象に選んでしまったことが、失敗の要因をして大きいように考えられる。『悪人』のように、一人か一カップルの心理を追いかけている作品の方が、見ている観客も感情移入がしやすいし、映画全体も空回りがし難いように思われる。しかし、この『怒り』の原作にしてもそうであるが、全体的な味わいで見れば、よくできた作品のようにも思えるのであるが、結局、犯人が何で怒っていたのか、どういう人間であったのかがまったく不明であるということは、作品として根本的に破綻しているとも見れる。破綻していても読みごたえがあるのは、吉田修一氏の才能によるものであろうが、そのような破綻が映画化への失敗に影響しているようにも感じられた。因みに私が劇場で見た時の観客数は、私を含めて僅か3人であった。まあ次回作品に期待というところだな。