龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

自転車屋にて我、思う。

シュウインと言っても一般的には何のことかわからないだろうが、アメリカ製の自転車メーカーである。私はシュウインのマウンテンバイクに乗っている。今から4~5年前のことであるが、自転車で飲みに行った帰りに泥酔してしまって、天地がひっくり返るようなはでな転倒をして、その時に乗っていた自転車を修理不可能なほどに壊してしまったのであった。それで今乗っているシュウインの自転車を買ったのだが、私は特に自転車好きという訳でもないので一番安いマウンテンバイクを選んだが、体の大きいアメリカ人向けに作られているせいであろうが、作りがしっかりしていてとても丈夫なのである。乗っていても安心感があって、私はこのシュウイン製の自転車が気に入っている。アメ車になど乗りたいとは全く思わないが、自転車はアメリカ製が良いと思う。生産国が中国というのが不愉快であるが、次はもう少し上等のシュウイン製のマウンテンバイクを買いたいと考えている。それでその自転車のブレーキが利かなくなってきたので、シュウインを買った自転車屋さんに先日、ブレーキパッドを交換してもらいに行ったのであった。その自転車屋は、いかにも自転車好きという30歳ぐらいのお兄さんが経営している小さな店で、私は自転車の調整をしてもらいにちょくちょくと行くのであるが、その店主はとても気が良い男でちょっとした調整ぐらいなら何度行っても無料でしてくれるのだ。悪いと思って金を払うと言っても受け取ってくれない。今回のブレーキパッドの交換にしても一つ1200円ということで、前輪、後輪の二つとも変えてもらうことにしたのだが、私の方からは何も言っていないのに二つなら二千円にしておきます、と負けてくれるのである。そういう男なので、その店は小さいながらもよく流行っている。客が頻繁にやってきて途絶えないのである。儲かっているかどうかはわからないが、そういう店は潰れることはないであろうと思う。
それでブレーキパッドを交換してもらっている時のことである。30歳ぐらいの主婦らしき女性が自転車に乗ってやって来て、私にはよく聞こえなかったが店主の男にタイヤの空気入れをお願いしたようであった。そうしたところ男は、何の躊躇もなくパッと私の方のブレーキパッド交換の作業を中断して、その女性の自転車のタイヤに空気を入れてやったのであった。それ自体は別に私も何とも思わないが、空気入れが終わると、女性は当たり前のような顔でありがとうの一言もなく立ち去ったのであった。無料である。その光景を何気なく見ていた私は、店主の男に「空気入れは、セルフサービスと違うんか。」と聞いた。セルフというよりも、無料なのだから自分でするのは当たり前のことである。そうしたところ男は笑みを浮かべながら、こう言ったのであった。「ケースバイケースですね。今の女の人は、見るからに手を汚したくなさそうだったから。」その率直すぎる答えに私は驚くと同時に、なぜか感心してしまったのであった。しかし納得がいかないので、「ただやったら、自分でするのが当たり前やと思うけどな。」と言うと、男は「中には空気を入れ過ぎて、パンクさせてしまう人もいるんですよ。」と言う。なるほど、自転車屋さんの空気入れは家庭用の手押しポンプではなく、コンプレッサーで注入するタイプだから、ノズルを注入口の部分に押し当てるだけで楽だし、大して手が汚れることもないはずである。しかし空気の入り具合を確かめるには、手でタイヤを触らなければならないので(それでも大して汚れることはないと思うが)、それを嫌がって空気を入れ続けていると、パンクさせてしまう人もいるのであろう。はっきり言って私には単なる馬鹿としか思えないが、自転車のタイヤは犬のウンコなども踏んでいるであろうし、女性の感覚とすればそういうものなのだろうか。私に言わせれば、自分が乗っている自転車のタイヤに触りたくないのであれば、自転車になど乗るなと言いたいのであるが。しかし私がその男の対応に感心した理由は至って単純で、到底私には真似できないことだからである。その男のレスポンスの速さというのか、女性の姿を一目見るなり瞬時に手を汚したくないであろう女性と見分けて対応を決める姿勢は、客の身なりや外見によって接客態度を変えるということだから、不公平であるとしてあまり良い印象を持たない人も多いかと思われるが、個人企業の店に公共性であるとか社会性を厳密に求めても仕方ないのであって、私は確かにそこには商売としての節操はないかも知れないが、その純然たる反射神経の如き反応に素直に感心してしまったのである。平然とケースバイケースだと答える正直さも好感が持てる。しかしその上で言わせていただければ、私にはとてもそういうことはできない。仮に私が自転車屋の店主の立場であれば、いかに僅かな汚れをも拒絶するかの綺麗な手をした女性であっても、空気入れぐらいは自分でやってもらうであろう。何度も言うが、ただなんだから当然ではないか。やり方がわからないのであれば、教えてあげるぐらいのことはするであろうが、それでも自分でやってもらうであろう。もし何らかの理由で私がやってあげなければならないケースがあって、その時に今回のようにありがとうの一言もなく帰ってしまうことがあれば、そのような常識のない客には、自分の店で自転車を買って欲しくなどないと考えると思う。しかしその男の顔には不快感を受けている様子は見られなかった。どうもそれが普通だと感じているようでもある。今、冷静に考えるに、もしかすれば私の方がその若者の男よりも、よほど人間ができていないようにも思える。とは言っても、その男を見習いたいとも思わない。はっきり言って、はっきり認めたくはないが、だから私は女性にはもてないのである。男にとって、一人の男が一生を生きていくうえで女性にもてるか、もてないかの違いは、時には生きるか死ぬかの大問題であろうが、私は何というのか、原理主義者なのである。もっと身近な言葉で言うと、自分では決してそうは思わないが、いろいろな場面で気難しいとか、理屈っぽいとか、融通が利かないと言われることが多かった。そういう特性は大別すると原理主義であるところから来ているように思われる。物事や道理の原理、道筋に背くものに対しては嫌悪感を抱いてしまって、適当にごまかしたり、受け流すことができないのである。だから生き難いということにもなるし、特に女性は社会的なマナーの問題は別にしても、女性的な皮膚感覚というものは根本的に原理主義とは相容れないものであると私には思われる。よって男性のそのような傾向性に対して女性は拒絶反応を示すことが多いのではなかろうか。原理主義に対して、自転車屋の男が言ったような「ケースバイケース」という言葉は、何気ない一言であろうが、ものすごく世界の本質を突いているものと考えられる。なぜなら極論だと言われるかも知れないが、我々が生きているこの世界は突き詰めればであるが、何が正しくて、何が間違っているということは何もないとも考えられるからだ。全ては相対的な見方に過ぎないのであって、もっと言えば我々がそこに確固として存在すると考えている物質的な実在も本当に存在するかどうかはわからないものである。仏教的に言えば万物は夢のような仮の姿なのであって、絶対的な根拠を持つ実在ではないということだ。そういう世界に対して、原理原則の思考で対処しようとしても、最終的には自分と言う存在の苦悩にしか行きつかない。なぜなら私が見ている世界は本当は実在しないのであるから、そこに絶対的な原理原則を当てはめようとすること自体が自己矛盾であり、ひいては自己否定につながるとも言えるのである。究極的に何も実在し得ないという世界とは、すべての善悪や秩序はその時々でこの世に適当に映し出されている映像のようなものに過ぎないのだからケースバイケースでしか対処し得ないし、またそうすることが真理であるとも考えられる。だから私は原理主義的でありながら、自転車屋の男のような態度を否定することもできないし、むしろ感心さえしてしまうのである。またそこまで哲学的に突き詰めた考え方をしなくとも、もっと即物的、世俗的に考えても、この世は、特に日本という国は本当に適当というか、かなりいい加減である。言ってみれば政治が作る法律も、司法が下す判決も、報道機関が流す情報も全ては適当に拵えられたものに過ぎないのであって、その背後に何の原理原則も、一貫した論理も見られないではないか。そこには、それこそケーズバイケースの近視眼的な調整しか存在しないものである。ただで自転車の空気入れをしてあげて礼の一言もなく立ち去られることと、韓国のような馬鹿国家に日本の国民の税金を財政援助資金として多額に供給し続けて、何の感謝もなく反日政策が継続されることの間にどれほどの差異があるというのだろうか。政治やマスコミは常に自分たちを立派に見せようと工作するために、国民に必要以上に難しく説明するものだが、そこには実質的に何の違いもないものである。市民的なケースバイケースの思考は、言ってみれば日本の国家的な堕落から発しているということもできるのであって、所詮、この世が空虚な仮の世界であるにせよ、それでも原理原則の根本が生きているからこそ、ケースバイケースの余地も存在し得るということではないのか。こういう小難しいことを言うから私は女性にもてないのであろうが、私が何かの主張を口にするとすれば、こういうことを言わずに済ませることのできない人間であって、言うか、黙っているかの二つに一つの選択肢しか存在しない。それは私にとっては存在するか、しないかの二者選択と同義である。金儲けをしている私は存在していないが、こういうことを言っている私は、物質的な実在を超越して確かに存在しているのである。