龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

愛と距離感の問題

どうでもいいことだが、映画には“レディス・デイ”の割引がある。別に、悪いことではないと思う。男性差別だなどと心の狭いことを言うつもりはない。最近は映画の興行も大変だと思う。私がよく行く近所の映画館は、いつ行ってもガラガラである。元々ガラガラだったのが、昨年の東北大震災以降、1日の上映回数が極端に減っている。まあ、経営的に考えれば1日の上映回数を減らした方が、赤字も減るのかもしれないが、見に行く映画ファンとすれば、いつ映画館が閉鎖になるのではないかと心配でならない。そのような厳しい経営環境で、週に1回、レディス・デイを設けてくれているのだから、男にとっても有り難い話しである。私は気の向いた時に、仕事を早く終わらせて平日の最終回上映(と言ってもこの頃は1日1回だけの上映作品が多いが)を見に行くことが多い。昨日は、トム・クルーズ主演の『ミッションインポッシブル』最新作を見た。見る前は、年を取ったトム・クルーズを見るのもどうかな、とあまり乗り気ではなかったのだが、とにかくその時は、劇場で何かの映画を見たいという気持ちが強かったことと、他に見るべきものがなかったので、その映画にしたのであった。結論を言えば、ハリウッド映画にお決まりの、冷戦をベースとした核攻撃による人類の危機といった脚本には辟易させられたのだが、トム・クルーズは至って元気であった。肉体的にも容貌的にもまったく衰えていなかった。その点だけは大いに感心したが、まあ、それだけの映画でもあった。
映画を見終わった後は、近くにあるスーパー銭湯に行くことが多い。その日も行った。私は、長風呂ではすぐにのぼせるくせに、風呂好きである。広くてゆったりとした湯船が好きなのだ。風呂に浸かって上がった後は、休憩所で自販機のホットコーヒーを一杯、飲んで帰る。ただ、それだけのことである。その日、帰りがけに受付で料金の精算をしていると、何やら様子が少しおかしい。従業員が困惑したような顔で、どこかに電話を掛けてひそひそ相談している。何気なく様子を見聞きしていると状況がわかってきた。50~60歳ぐらいの女性客が一人で受付前で立っているのだが、その客が原因であった。その女性は、その日がレディス・デイの日だと思って来たようなのである。そう言えば、風呂に来る前に行っていた映画館も水曜日はレディス・デイになっていた。私は、そのスーパー銭湯には頻繁に行っているが、レディス・デイがあるとはまったく知らなかった。しかしどうやら数年前には、その銭湯も水曜日をレディス・デイにしていた時があったようである。女性客はその日がレディス・デイだと思って数年ぶりにその銭湯に、レディス料金だけ持ってやってきたのである。因みに一般の入浴料が1050円で、レディス料金は840円のようだ。女性は手のひらに乗せた840円を受付の従業員に見せながら、今日はこれだけしか持って来ていない、レディス・デイが知らない間になくなっていたのは店の勝手な都合であり、自分はわざわざ寒い中を来店したのだからこの料金で風呂に入れさせてくれと、ぐずぐずとごねているのだ。小学生ではあるまいし、風呂に入るだけだと言っても、外出するなら数千円ぐらいの余分の金を持参するのが普通の感覚である。また店側が都合で料金やサービスの改定をすることはよくあることで、数年ぶりにやって来た客がその変更を知らなかったことにまで責任を負う必要はないことは誰が考えてもわかることだ。難儀な客だな、と私はその店に同情したのであった。従業員は、礼儀を逸しないように丁重に説明に尽くしていたが、その女性客はかなり執拗に粘っているような雰囲気があった。それで従業員はどこかに電話を掛けて、状況を説明し、指示を仰いでいたのであった。私から見れば(誰から見てもそうだと思うが)、その女性客の態度は本当に見苦しいものである。何とも言い難い不快感を私は感じた。そのような人間にはデフレもインフレも何の関係ない。単に非常識なだけである。余程、私はその女性に対して、「そんな、わがままなことを言うたらあかんで。」と注意してやろうか、あるいは、私が不足分の210円を出してやろうかとも一瞬考えたのだが、やはりそのような余計な真似はしない方がよいと思い止まり、黙って店を後にしたのであった。しかし今、考えれば注意はともかく、差額の210円をちゃりんとカウンター越しに投げ付けて、「この人を入れさせてやって。」と言ってやれば良かったと思っている。その時に、その女性がどのような反応を示したのかが、実に興味深いところである。果たして私に感謝して礼を言いつつ入店したのか、恥をかかされたと怒ったのか、それとも気まずくなって黙って店を出たのか、本当に試してやればよかった。その時は、結局、最後まで見届けずに店を出たので結末はわからないが、恐らくその時の雰囲気から、店は女性客の要求を受け入れて840円の割引料金で入店させてやったと思われる。人によっては、いかにも大阪らしい話しだと思われる方もいるかも知れない。また、確かに東京にはこのような“厚かましい”おばさんはいないのかも知れない。しかし、大阪にはいるのである。ネス湖ネッシーが、ヒマラヤ山脈にイエティが生息するのと同様に。女(おばさん)だからどうのこうのとは言いたくはないが、総じて大阪には、たちの悪い変な輩はたくさん存在するが、また金にせこい男もたくさんいるであろうが、それでもこの女性のようなごね方を公共の場でする男はおそらく一人もいないであろう。こういう事を言うと世の中の全ての女性を敵に回すことになるかも知れないが、(別に私はそれでもかまわないと考えるが)、女の世界はどうして一定の年齢を超えるとこのような恥知らずの感覚が一部の人間に出来するのであろうか。社会性が欠如していると言えばそれまでだが、そのメカニズムは、身勝手な権利意識が損得勘定と深く結びついている思考習慣が原因になっていると思われる。女性差別だ、女性蔑視だとの批判を覚悟で言えば、そのような傾向は、私は今の時代であっても男性よりも女性に顕著に見られるように思える。今回のケースに具体的に当てはめれば、以前に入浴したレディス料金の840円が、その女性にとっては所与というか当然の権利になってしまっていて、それ以上の料金を支払わされる事態は不当な損失を被らされたように思えて心情的に受け入れがたいのでないのかと想像される。(但し、そのような心理構造そのものは、私の母親などにも多分に見られるので、あまり人様のことを悪し様には言えないのだが。)男(私)は常に、もう少し立体的というか、社会的な奥行きを持って自分の置かれている状況を把握しようとする。たとえば、そのスーパー銭湯は古くから営業している老舗であるが、最近は新しい店が次々と出来てきているので、客を奪われてしまって、また不景気の影響もあるのであろうが、いつ行っても客がほとんど入っていない。入浴料の1050円を大まかに予想される月間の延べ入場者数と掛けて、水道代や電気代、従業員の給料を差し引けば、どう考えても赤字である。はっきり言って、いつ閉店してもおかしくはない。しかし私とすればその風呂はよく利用するし、その場所にあることが非常に便利なので、なくなって欲しくはない。だから料金は安いに越したことはないが、あまり無茶な経営はして欲しくないのだ。口幅ったい言い草ではあるが、私には自分が利用する店や施設に対して、それなりの“愛”がある。料金が100円や200円安くなったからと言って、その差額分だけ得をして、幸福になれるとは絶対に考えない。その場所に、その店や施設があり続けることが、何よりも重要なのである。だから自分が自分の意思で選択したものに対して、それなりの対価を支払わなければならないと私は考える。このような思考パターンは残念ながら女性は男性に比べて、一般的には貧困なのではなかろうか。もちろん男女の区別を超えて日本の国自体がそのような貧困思想に陥ってしまっていると見れるので、男女共通の普遍的な問題でもあると言えるのだが。
先に述べた、映画のレディス・デイについても同様である。私は映画が好きである。だからいつでも自転車で直ぐに見に行ける距離にある、その映画館は絶対に廃館になって欲しくない。よって週に1回、レディス・デイで女性の料金を1800円から1000円にするのであれば、その差額の800円を映画館側が負担するのではなく男性客に付けて、1800円から2600円にしてもらってもよいと、私は思う。そんなことをすれば、そのレディス・デイの曜日は男性客が一人もいないと懸念されるかも知れないが、決してそんなことはないと思う。いい格好をするつもりはないが、少なくとも私は、進んでその曜日に見に行くことになると思う。なぜなら、その劇場に存続し続けて欲しいと思う映画と映画館への“愛”があるからだ。また、つまらない映画を規定料金で見るよりも、たとえ800円余分に負担してでも地域の映画館を自分が支えているという自負心を持つ方が、人生はより豊かになると私は信じる。ついでに言えば、Barも同じである。私は映画や風呂帰りにBarに立ち寄ることが多いのだが、ぼったくりバーなら話しは別であるが、チャージも取らずに一杯600円や700円の料金で酒を飲めて、バーテンダーが話し相手になってくれるような場所は非常に貴重である。街角に馴染みのBarが一つの風景として存続し続けることが、文化であり人生の一部だ。100円程度の価格競争が、人間を豊かにしてくれる訳ではない。それは単に寡占化の中で一部の強者が栄えるだけではないのか。私の例で言えば、Barにしても映画館にしても、銭湯でも同じなのだが、自分が愛を持って、その地域を支えているという意識を持てるかどうかが全てではないのだろうか。それなら人は、どういう条件の下で愛を持ち得るかという命題に立ち向かうこととなる。このような話をすれば、一部の立場の人間はすぐに、社会保障の受益と負担を持ち出して消費税増税の正当性を援用することになるであろうことは目に見えているのであるが、結局、社会的な“愛”とは距離感の問題に行き着くのだと私は思う。人間は原理的に、距離感の遠いものに対しては愛が持てないのだ。日本は地勢的には非常に小さな国土に過ぎないが、世界第三位のGDPと霞ヶ関一極集中の中央集権システムにより、権力機構の意向と市民の生活感覚の距離感が非常に遠い。日本は末端の市民が愛を持てないような統治システムとなっているのである。現実に税金が何に使われているのかまったくわからないような距離感しかそこにはないから、愛など持てようがない。“税と社会保障の一体改革”なるフレーズなどまったく、いんちきだ。そこには国民を誑かす誤魔化ししか存在し得ない。既得権者にとってのみ都合の良い論理だ。北欧諸国における高率の消費税と満足度の高い福祉が並立しているのは全て、経済規模や人口に見合った適度な距離感に権力と行政機構がバランスよく収まっているからであろう。
宇宙空間における生命が誕生し得る太陽と惑星の距離条件のようなもので、近すぎても、遠すぎても駄目なのである。適度な距離においてでしか、生命(愛)は生まれないのだ。因みに、橋下大阪市長の唱える大阪都構想とは、最終的にはこのような適度な距離感の下に日本の権力機構を再編しようとしている点において大いに評価できる。決して、橋下を潰させてはならない。橋下の敵は大き過ぎるから、市民が守ってやらなければならないと私は思う。