龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

モノの思想 1

世界は、たくさんのモノと情報に溢れている。当然のことではあるが、一人の人間が、人生で遭遇するモノや情報は全体の中のごく一部である。我々は偶然をも含めて、その時々で、主体的、能動的に何かを選び取っているように考えがちであるが、本当は、それらの何かが発する波長によって、人とモノが互いに引き合うように出会っているのではないかと思える時がある。その波長の正体が一体、何であるのかと言えば、わからないとしか言いようがないが、私はモノにも心があると思っている。その一方でモノはモノ以上のモノでは有り得ないとも考えている。要するにわかりやすく言えば、“特別な”モノは何もないということだ。仮に仏像や墓に心が宿っているのであれば、時計やパソコンにだって心があるに違いない。仕事などで長年パソコンを使っているとまるで時宜を心得たように、新しい機種に買い換えた段階で、息を引き取るようにすーっと壊れて電源が入らなくなったりすることがある。そういう時には感謝の気持ちに満たされる。人間もこういう風に死んでいくのかな、と感慨深く思ったりもする。もちろんパソコンの場合は新しいにも拘らず、いきなり故障して腹が立つことも多いのだが。私は見たことはないが、髪の毛が伸びる人形がもし本当に実在するのであれば、その人形だけでなくて、世界中の人形がたとえ髪の毛が伸びなくとも心を有しているということになるであろう。モノはモノ以上のモノで有り得ないという原理原則に立てば、全てのモノは平等であるからだ。全ての人間が神の前で平等であるのと同様である。モノに心があると言えば、呪術的だと嫌悪される人もいるかも知れないが、私はモノを科学の目で純粋にモノとして観察した場合には、唯物論的に自己完結していると思う。ところがそのモノに人の意識や感情が一つの関係性として加わると、あたかもそのモノが能動的に何らかの波長(心)を発しているように見える。モノは単体ではモノでしかないのだが、モノをモノ以上の存在に足らしめるのは結局、そのモノに関わる人間の視線なのだ。考えれば人間の肉体も一つのモノである。最先端のコンピュータも及ばない高性能の人間の脳も結局はモノに過ぎない。モノは時間と空間と言う世界を必要とするが、人間の精神や魂は必ずしも時間や空間の概念に収まるとは言えない。肉体を含め、モノを成り立たしめる時間や空間とは、神の目から見れば、何かをわかりやすく追体験し、理解するための触媒のようなものではなかろうか。仏教で言うところの因果応報の考えも同様であるが、原因と結果の関連はある意味において、時間と空間の次元に晒さなければ発現し得ないとも言えよう。原因と結果が同時発生しているような一つの状態(あの世)を想定すれば、その原因と結果をきちんと分離して体験し、確認する一つの場(物質空間)が必要となる。そのように考えれば、現世における結果そのものよりも、原因と結果をつなぐラインというか、プロセスそのものを見つめることに意義があると言える。また仏教的に見れば、そうすることによってしか人生の苦悩は消滅しないのである。ところが物質世界には物質世界の強固な価値観というものがあって、たとえばわかりやすく言えば金やモノをたくさん持っていれば、それだけ価値の高い人間であり、貧者は人間的にもそれだけの価値しかないという固定観念が、資本主義社会には特に根強いと思われる。私は共産主義者ではないが、そのような資本主義社会特有の考え方は好きではないし、また正しくもないと思う。人間は、他者との持てる富の格差によって値打ちが決まるものではないと思う。現実を無視した理想論に過ぎないと笑われるかも知れないが、全ての人間が生活に困窮しない程度のほどほどの物欲、金銭欲で満足すれば、絶対的な貧困は世界に生じ得ないのだと私は思う。人間は、ほどほどの物質的満足で、最上の精神的な価値を人生において追求してゆくべきではなかろうか。このような理念は、現在の世界における南北問題や環境問題、人口問題にも通じる、国家単位でのパラダイムの転換を必要とするところの一人の人間にとっての生き方の哲学だ。金やモノを存在せしめる物質や空間が、因果応報を生起させる舞台でしかないという理解に立てば、そのように考えることにさほどの無理はないと思うが、その理解を妨げている弊害があるとすれば、私はそれは二元論的な思考だと思うのである。たとえば幸福とは哲学的に見れば精神と物質が程よく調和された状態であるとも言えるから、精神主義や物質主義のどちらかに極端に偏った生き方が、幸福から遠く隔たった結果に陥ることは一般的に考えても誰しも納得のいくことであろう。唯識か唯物かの思想対立は、資本主義と共産主義を基礎付けるイデオロギーとしてだけでなく、また有神論と無神論の宗教上の問題でもなく、全体的な一つの流れとして極論に走ってしまうところに問題があると言える。特に日本はその傾向が高いと言えるであろう。思えば日本は、太平洋戦争中は国家神道という一つの極端な精神主義に国全体が覆われていたのを、アメリカの核爆弾という究極のモノによって打ち破られた訳であるから、精神がモノに負けたという見方も出来る。神秘的な精神主義の迷妄が悪で、唯物論的な世界観が健全な善であるかのような思想も敗戦から来ているのだと思われる。もちろん戦後復興の途上では物質礼賛は止むを得ないことであったが、時代の変遷の中で果たして今が、どういう思想を選択すべき地点にあるのかをよく見極めることが重要であると思われる。もう日本は、規格品の大量生産、大量消費の経済に後戻りすることは絶対に有り得ない。高級車を所有することがステイタス・シンボルである時代も終わった。モノの死骸と言うべきゴミは社会の敵である。もちろんだからと言って、モノを持たない(買わない)ことが偉いという訳でもないが、モノを所有したり買ったりすることの基本的なモチベーションが変化しなければもうモノが必要以上に売れることはないであろう。ならば景気は底なしに悪くなって当然かと言えば、決してそういうことでもないと思う。日本がそういう状態にあるということは、次なるステップに進まなければならないということではないのか。