龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

憂鬱なる神学 6

人生の苦しみの源が「執着」で、仏教はこの世の全ては仮象の姿であって実体がないと衆生に教えることで、物質的世界観の固定観念を打ち壊し、執着への迷妄を取り除こうとする。我々日本人にとって非常に親しみがあり、また広く流布されている般若心経は、人間が執着を打破するための精髄である空の思想が、簡潔にそして繰り返し説かれている。その思想は徹底した否定である。一般に我々は、苦悩を構成する要素とは、思考や感情にあると考えがちである。よって人生の様々な苦しみの原因を遠ざけたり、被った悲しみを癒すためには、誤った考え方を改めようとしたり、時間の経過の中で忘却しようと努めるものである。しかし得てして人は、同じような苦しみや悲しみを自らが引き寄せるように周期的に繰り返すものである。そのループから脱却することは、意志の力だけでは難しいことが多い。仏教にあっては、この現象界における人間存在を成り立たしめている五蘊という五つの原理を全て否定する。五つの原理は、色・受・想・行・識であるとされているが、それらが空であると観ずる時に、人間は苦しみから解放されると説かれている。実体がないものを実体があるかのように錯覚し、その幻影に執着することが苦悩の根源であると看破されている。それでは五蘊とは何かと言えば、受・想・行・識は、感覚によって感じたり、考えたり、想像したり、記憶、意志、認識など人間のあらゆる精神活動を総合したものであるが、「色」とは物質や肉体のことを意味する。しかし形なき精神活動の所産が、空であるということはわからないではないが、物質や肉体までもが空である、すなわち実体がないとは一体どういうことなのであろうか。般若心経においては色即是空、空即是色と物質の空性が特に強調されているものである。あまりにも有名な言葉であるゆえに、衒学的にわかったような説明をすることはさほど難しくないのであろうが、しかしそれでは本当にわかったことにはならない。もちろんそれでは私に真の理解があるのかと問われれば、何とも答え難いが、何度も繰り返す通り、基本的にこういうことは自分の頭で考えることに意味があるものである。自らの魂と頭で追求しないで、どこかの仏教書に書かれている解説を鵜呑みにしたり、学術的な権威に寄りかかって何かわかったような素振りを見せても、正にそこにあるものこそが「空」であると言えよう。そういうことなので間違いと勘違いを恐れずに、私なりの考えと解釈を述べさせていただくことにする。
物質が空だなどと言われても、我々を取り囲むこの物質世界はあまりにも堅固で、どう考えても明瞭、明白に実在しているものである。感覚的には否定しようがないものである。最も身近な物質である我々の肉体にあっては特にそうであるが、生理感覚や本能と結びついているから、この実在が迷妄であるなどとはとてもではないが考えられない。無理やり観念論的に空だと悟ったつもりになっても、誰かに殴られれば確かに痛いし、駅から特急列車に飛び込めば肉片が飛び散ってバラバラとなり、間違いなく死んでしまうのである。この物質的なリアリティーを仏教との関連においてはどのように考えるべきなのであろうか。先ずそもそも仏教が、そのように人間存在や肉体の現実感というものを否定する教えであるのかと見れば、私はそうではないと思うのである。前回にも述べた通り、仏とは人間を救済するためにこの地上世界に派遣された存在であり、人間の本能に根差した生存感覚を打ち消したところで、救済したことにはならない。そうではなくて仏教とは、人間がこの世を生きる上での苦しみや苦しみの原因となる迷いを取り除くための教えである。しかし、色即是空とは物質や肉体の現実感を薄めるという以上にはっきりと否定している。それと明瞭で疑いなき物質的リアリティーを我々は精神の内部でどのように消化し、理解すべきなのであろうか。私は次のように考えるものである。確かに今この瞬間の実在という視点から見れば、物質や肉体は否定することが難しい。なぜなら肉体も物質の一部であり、物質が物質を否定することは論理的にも不可能であるからだ。しかし人間とは物質だけで形作られているものではなく、永遠につながる魂と自らの魂を省察する精神をも保有している生命体である。今この瞬間を離れて、永遠の視点で物質世界を見たときには、どんなに堅固に見える存在物も永続性を持ち得ない。形あるもの全ては、必ず朽ち果てて無に帰する定めである。我々の肉体だけでなく、惑星や太陽などの恒星までもが宇宙的な時間の中ではいつの日にか消えて無くなってしまうこととなる。よって人が認識するところの揺るぎなき物質的リアリティーとは、今、この瞬間に固着した意識の現実感覚であると言えるのである。神や仏の眼差しは全てを見通している。全てを見通した上での今であり、その眼差しで見れば色即是空の真理は、この物質的リアリティーと決して矛盾するものではないのである。仏教においては、「劫」という極めて長い時間が説法などにおいて用いられる。劫とは宇宙の生成、消滅という悠久なる時間単位である。一つの例えにおいては、天女が三年に一度、地上に舞い降りてきて、天衣の袖が、縦、横、高さ数十キロメートルにも及ぶ巨大な岩をさっと払うように触れたとして、その岩が跡形なく消滅してしまうほど時間が、劫である。一劫でも無意味と言えるぐらいに長い時間であるのに、仏教においては「百千万億劫」などとも言う。百千万億劫、不可窮尽、(百千万億の劫という時間が経過しても、尽き果てない)というように説法される。どうして仏教ではこれほどまでに極端な例えをするのかと言えば、いつの時代にあっても民衆とは愚昧であり、目の前の欲得や狭小な人間関係だけに囚われて、その凝り固まった考えに従ってしか生きてゆけない存在であって、そういう人々を仏教の世界に教導するためには、これでもか、これでもか、というぐらいに目前の現実感覚を打ち壊して、仏の有り難さや深遠さを伝える必要性があったからだと考えられる。つまりそれだけ人間の我執や物質への執着は根強くて、離れ難いものであると言える。また仏教的にはその離れ難さ、手放し難さこそが人間の現実感覚の本体であって、その世界の苦しみから人々を脱却させるためには、空の思想が説かれなければならないのである。つまり方便であるとも言えるが、方便ばかりであるとも言えない。なぜなら物理学的に考えても宇宙誕生、膨張のビッグバンは今から138億年前だと言われているが、それではそのビッグバン以前は何があったのか、宇宙以前とはどのような状態であったのかと言えば、何もわからないものである。つまり我々の人間存在や宇宙内部の地球や太陽など無数の天体も含めて、究極的に元を質せば、何も無い所から発生してきたと考えられるものであって、正に色即是空、空即是色の仏教的真理が生きていると見れるものである。まあどのように考えるかはその人の自由であるが、魂とは人間の表層的な思考とは異なって、真理を感得した時には変化せざるを得ない一つの自律的な活動である。或いは我々は、生存の苦を減ずるためにも、魂の次元に降り立つ思考を常に求められているとも言える。それが仏教の基本であると私は思う。次回に続く。