龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

憂鬱なる神学 2

純粋で憂鬱なる我が神学によれば、神は確かに存在する(これが最も大事であることは言うまでもない)のだけれど、人生に対して意味を与えたり、価値判断を示したり、教導するものではあり得ない。意味は人間が人生の途上において、自由に創造する一つの価値であり、また解釈であって、神が人間に所与のものとして与える絶対的な意味と言うものは存在しない。また意味の不在が、人間存在の神の下における平等性の前提となっている。神が主体的に、人間の人生に関与したり、干渉することも考えられない。人間は十全なる自由意思によって神を完全に否定することが可能であるが、それによって神の絶対性や完全性が損なわれたり、揺らぐものではあり得ない。神を肯定する者にとっても近代の人間は、人間社会の歴史的な成り立ちや他者との比較構造によって、無意識の内に、神との関係性を距離的に序列化、階層化されることに慣れてしまっていることから、各個人が内面的に、健全で生き生きとした神との関係性を取り結ぶことが、非常に難しくなっている。「私」という存在の個別性は、その視線の眼差しと眼差しによって会得されるところの認識にあるが、私以外の他者性が、私の眼差しに流入するある種の神秘が日常生活に現出するように感じられる時もある。神は太陽のような存在であり、私の眼差しの方向と在り方によって、あくまで心理的な相対性の距離感の範囲で私との私的な関係性が形成されるものであり、単純に昼が善で、夜が悪と区別されるものではない。昼も夜も、太陽(神)を中心とした、地球(人間)の精神活動の連続性の中に現れる魂の光景であるとも言える。太陽と地球に例えられるように、神と人間の絶対的な距離は不変であり、神は不動の存在であるが、中世において地動説の考えが宗教裁判において処罰されたように、現代においても人間(権力)を中心とした神学の考えによって、神は人間世界の論理構造をなぞるが如く人生の頭上を巡り続ける。つまり神は人間の善悪や霊性の序列によって、現れたり、消失したり、近づいたり、遠のくように道徳化され、説明されている。神は人間をどのような意味合いにおいても差別することは有り得ない。神は特定の人間を選んだり、排除することはない。しかし人間の神を感取する能力に、個々人において大きな差があることは確かである。宗教は本質的に差別的で、神の観念を利用して人が人を支配する側面が大きいと見れる。ここまでは前回の大体のまとめであるが、今回は主に宗教の「偽善性」について述べさせていただく。宗教の巧弁は、端からわかっている。宗教と無関係な私の述べるような神学に対して、宗教者はこのように言うことであろう。あなたのように自分自身で神の存在をしっかりと考えて、関係性を結ぶことが出来る人には、宗教は必要でないのかも知れません。しかし世の中には、自分だけの力ではそうすることも出来ずに、苦しんだり、救いを求めている人々がたくさんいます。我々には、そのような人々に神の御心(あるいは仏法)の偉大さや有り難さを伝えることによって、救ってあげなければならない使命があるのです、と。何をどのように考えるかはその人の勝手であるが、ここには宗教が本来的に持つところの傲慢さや思い上がりがあると思う。果たして信者は、本当に天使のように、人類救済の役割を担わされた人々なのだろうか。彼らが口にする通りに、「正しい」宗教と、「間違った」宗教が存在するのであろうか。自分が救われたと感じているからと言って、それを他者に押し付ける行為が、正しいのであろうか。そもそも信者は、他者を「救う」ということの意味を深く考えたことがあるのだろうか。私が見る限りにおいて、大きなお世話かも知れないが、そのような信者たちは、本当に救われているようには見えないのである。他者を救うということの意味が正しく理解できているようにも見えない。結局、やっていることは救済ではなくて、正に自分がしているように新しい信者を獲得したり、教団に献金させるための仲間を増やそうとしている(つまり教団のための布教活動)だけのことではないのか。これは私の個人的な考え方なので異論もあるかとは思うが、他者を救うということの核心は、自分が主体的に、他者ではなくて「自分自身」を救うということでしかないと思う。真に自分で自分を救うことが出来た時には、その自分は、わざわざ宗教上の権威や教義を持ち出してきて、誰かを救ってあげましょうなどと、はた迷惑な使命に邁進しなくとも、黙っているだけで自然と他者に良い影響を与えられる人間に変化しているものである。反対に自分自身が救えていない人間の他者や人類への啓蒙、救済活動とは、たとえそれがどのような親切心から出ているものであっても、本質的には暴力的なものである。無理強いしたり、折伏(屈服させること)したり、極端にはオウムのポアのように殺すことも救済だという理論が成り立つ要素が、宗教には常に伏在しているように考えられる。戦争と同じような独善性がそこにはある。オウム事件の時に、オウムの幹部が盛んに大乗仏教の意義を説明していたが、魂の救済というレベルで見れば、大きな乗り物とか小さな乗り物という区分は私にはあまりに世俗的であるように感じられるし、その区分自体にあまり意味はないと思われる。肉体はこの物質世界では個別的に分離されてその存在が完結しているので、ノアの方舟ではないが、たくさんの人を救うためには大きな乗り物が必要という理屈も成り立つであろうが、魂とか霊魂は、どこからどこまでが私の所有で、この境界線から向こうはあなたのものと厳密に線引き出来るものではない。私が救われれば、その「私」には私以外のあなたや誰かも目には見えないが、つながっているのである。それが物質とは異なる魂や霊の世界の特徴であると考えられる。つまり私を救えば、他者も救い得るし、私が救われないのであれば、決して他者も救い得ないということになる。「私」とは小さな乗り物ではなくて、本当は他者にもつながる大きな乗り物なのである。これを即物的に、単独の私を小さいと見て、多数を大きいと見る思想は、宗教というよりも「政治性」の色合いを帯びているように考えられるものである。だからオウムもそうであったが、そのような性質の宗教は自ずと、政治に進出しようと考えるものなのである。次回に続く。