龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

憂鬱なる神学

人生は虚しい。いや、それ以上に人生は憂鬱である。虚しくても、憂鬱でも何とか生き続けなければならないのが、人生である。愛とか、希望とか、夢など、そういう生きる上で心浮き立つような類のものは、私は自慢じゃないが、ほとんど持ち合わせていない。本当に何の自慢にも、ならないのだけれど。私が持ち合わせていないということは、私の精神や魂に、そのような美質がないということも言えるのかも知れないが、根本的に、私がそれらの価値を認めていないということもあると思う。私は、本当のことを言えば、愛とか希望や夢など、世界のどこを探してもないと考えている。あるとすれば、ディズニーランドの、或いは近いところではユニバーサルスタジオの装飾された敷地内だけである。スピリチュアリズムでは外の世界ではなく、自らの内部に全ての可能性や、人生の様々な問題の解決方法が蔵されているというが、果たしてそれもどうなのだろうか。そうだとも言えるし、そうでないとも言える。自分で言うのも何だけれど、私は客観的に自分という人間を分析したり、深く掘り下げて追求する能力が一般的な人よりも数段、優れていると思われるが、それでも行き着くところは、茫漠とした空虚とでも言うのか、もしかすればそれは仏教的なものなのかも知れないが、愛とか希望などの層には行き当たらない。もちろんそうは言っても、私とて子供のことは愛しているし、子供の将来や日本という国に対して、全く希望を喪失してしまっている訳でもない。そういう意味では私という人間は、多くの同世代の人々と取り立てて変わるところはないのである。人生の何かに対して決定的に諦めながらも、現実という物干し竿に、洗濯バサミ一つで辛うじてぶら下がっている下着のように悄然として生きている。私は、自分という人間を特別だと考えたい訳ではないし、そうかと言って、多くの人々と一つの価値観や喜びを共有したいと望んでいる訳でもない。私にあって、私を個性化足らしめている特性とは、理解してもらい難いかも知れないが、特別であるとか、平凡であるとか、或いは生産的であるとか、不毛であるとか、そう言った世俗的な価値対立を「超越」と言えば少し語弊があるのであろうが、超越ではなくてそのような世俗的な価値対立の境界を霧散させたり、人生の新しい価値を生み出そうと意図するところのぼんやりとした視線のようなものである。そのぼんやりとした視線と言うか眼差しが、どこから来ているかと見るに、私の内部からであるようにも思えるし、私の外部、つまり私の眼差しでありながら、私とは離れた他者の眼差しで見られているような気もするものである。「私」とは何かと言えば、結局のところ私という存在を通して世界を「見る」一つの「眼差し」であり、その眼差しによって到達するところの「認識」なのである。そしてその私が、純粋に物理的に個別化され、この地上に現出している私だけで成り立っているのか、それとも何かそれ以外の超自然的な要素も重ね合わさっているのかどうかは、よくわからないところがある。確かに、自分という一個の存在物と現実世界との関係性は、何かしら即物的な法則だけでは説明し切れない神秘的な要素も孕んでいるように感じられるものである。そしてそのように考えたり、自主的に感じようとする誘惑が日常生活には常に満ちている。しかし、だからと言って、即座に神や霊がどうのこうのと言うことは、あまりに短絡的であると同時に大変に気恥ずかしいものでもある。そのような姿勢は、自分は無垢で純粋な人間ですと宣言しているのと同じである。それに対して気恥かしさが感じられないのであれば、ただの馬鹿である。よって私は信仰心はあっても、安易で短絡的なスピリチュアリズムに自らの思考や感性が流れることに知性的な面では否定しているし、防御的であるとも言える。しかし完全に否定しきれるかと言えば、そうもいかないのも事実である。それは社会一般のスピリチュアリズムへの評価や批判がどうかという問題ではなくて、これまでの私の人生において純粋に思考され感得されてきた真理については、他者の目とは無関係に、どうしようもなく否定しようのない事実だからである。人生や世界が、「私」という意識との関係において魔法のように煌く不可思議さに満ちていることは、疑いようのない真実である。しかしそれを他者に説明することは非常に困難である。説明すべきものでないという気もする。言葉にして説明した途端に、魔法が解けたように、夢から覚めたように、通俗的な物の理法に落下する性質のものである。たとえば、わかりやすく卑近な例で説明させていただくことにする。私は今回のこのエッセイの冒頭で、自分は人生において、愛とか夢とか希望などを持ち合わせていないし、またその価値も認めていないと述べた。そうして、その数十分後に仕事の用事で郵便局に行って、何気にふと見れば郵便局内に貼られたかんぽ生命のポスターが目に飛び込んでくる。そのポスターは、名前は知らないがおそらく若手の女優だと思われるが、一面に笑顔の写真で、コピーには「人生は、夢だらけ。」と印刷されていたのであった。そのポスターを見て私は、思わず苦笑を浮かべるのであった。人生は夢だらけで、その夢を大切にするためにも、保険には入っておきましょうということか。なるほど、若者たちにとってはそうなのかも知れないな、と思う。それとも私に対して言っているのか。私を励まそうとしたり、私の考えを翻させるためのメッセージが、超自然的にそこに偶然性を伴って現れているのか。このような現象(ユング的には共時性)をどう考えるかは、人それぞれである。果たしてそこには何がしかの「意味」があるのであろうか。心理学がどのように解釈するかは知らないが、私個人の認識で言えば、そこに意味はないのである。一口に意味がないというところの意味合いも微妙なのだけれど、神や現世を超えたところの神秘性によって付与されたり、語られるべき意味合いは何もないということである。但し、ポスターを見たその瞬間に私が何かを感じて、その何かが私の考え方や人生にほんのささやかなりとも影響を与えるとすれば、その何かが私にとって初めて意味となるのである。創造への意思がなければ、そこに意味はないのだ。敷衍して言えば、人生においても同様であると思う。人は何のために生きるのか、そこにどのような意味があるのか、とは、人生の普遍的な問い掛けであるが、神や宇宙が担保すべき、揺るぎなき絶対的な人生の意味など、そもそも何もないということが真理であると私は思う。神は、一つの価値観や考え方を人間に押し付けたり、導いたりするものではない。また特定の人間を選んだり、排除するものでもない。人はあらゆる意味合いにおいて、神の下に平等なのである。そしてそれは、人間の1個の人生が、不変の絶対的な意味を持ち得ないということと同義である。なぜなら「神」が人生に意味を与える存在であると仮定すれば、人間とは神の下に不平等な存在であると帰結されることとなるからである。意味とは生きる上での個的な方便であるばかりでなく(仏教はそういう性格のものであるが)、神話や物語の中で、生まれながらの優劣や貴賎をも正に意味することとなるからだ。よってこれは私の考えであるが、宗教とは元々、差別的で神と人間の「健全な」関係性を歪めるものであると思う。一概には言えないが、宗教は人間が人間を支配するために、神という観念を利用している側面が大きいのである。私が宗教を嫌う理由はそういうところにある。またそのような傾向は、言うまでもなく新興宗教により大きいものである。オウム真理教などもそうであったが人間の認識力や霊性をステージがどうのこうのと階層化し、そのステップを昇るためには、修行やお布施が必要であると説明する。そういう類の宗教はごまんとある。いや、宗教とは本質的には、一様にそういう性質のものであると言える。一見するところ、それは尤もらしい論理構造を持っているように見える。そしてそのような教義にいとも簡単に、それも高学歴の極めて頭の良い人々が絡め取られてしまうのである。繰り返すが人間は、どのような意味合いにおいても神の下に平等である。神は決して人間を差別したりはしない。人は神との「距離感」による序列化や階層性によって、貴くなったり、卑しくなったりするものではないし、賢くなったり、愚かになったりするわけではないと思う。そういうものでもないのだ。そういうものではないのだけれど、宗教は常にそのように迷える人間に思い込ませようとする。それは宗教組織が凡俗な人間に示すまやかしの手口である。人はあくまで、人間世界の論理構造と都合で、貴くも賢くも、卑しくも愚かにもなるものである。神は無関係である。しかしそれと同時に、人はそれぞれ、神との心理的な距離感と関係性において、生かされているということができるものである。この二つの命題は矛盾するものではない。どういうことか分かりやすく例えれば、神は太陽のような存在である。人間という惑星は昼の世界のように太陽を見ることも出来れば、夜の世界のように太陽に背を向けることも出来る。人間にはそのように神を肯定することも、否定することも可能な十全なる「自由」を与えられているものである。そして人間という惑星が昼であろうと、夜であろうと、太陽という存在は何一つ損なわれることも穢されることも有り得ないし、その距離も不変である。そこに本来、序列や階層が入り込む余地はないものである。しかし、惑星が自転の向きにおいて太陽の方を見る方向に入れば、心理的に太陽が大きく近づいたように見え、反対の向きになれば小さく遠のいたように感じられるであろう。よってつまり、人間は神の下にどこまでも平等で、万人は等しく生かされているものであるが、人間の眼差しの向きと認識のあり方によって、あくまで心理的な相対性の範疇において、大きくなったり小さくなったり、近くなったり遠くなるように錯覚しているだけのことである。序列や階層は、宗教組織の維持にこそ必要な論理であって、神と人の関係性を説明し得るものでないことが、この説明でご理解いただけることであると思われる。人間は時には、神の意志のもとに人を殺したりすることもある生き物であるが、こういう真理は、どんなに高学歴の優秀な知力を持ち合わせていても、神や世界に対して常に主体的に自分の頭で思考することが出来なければ、結局は洗脳されて利用されるだけの結果となる。人間世界は、宗教組織も含め、そのように形作られ、内部統制されているものである。そして当然のことではあるが、神は、人間が神の名の下に洗脳されて、利用されるだけの自由というものをも何一つ干渉したり、罰したりはしないものである。次回に続く。