龍のひげ’s blog

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憂鬱なる神学 5

うらめしや、で締めくくった後に、神について述べるのは少し気が引けるが、まあ、よしとする。ということで「憂鬱なる神学」の第5回だ。今回は先ず初めに、神とはどのように定義される存在であるかということについて思うところを述べたい。と言っても私は宗教学者でも、霊能力者でもないのだから、万人に納得してもらえるような説明はできないし、また私自身、そういうつもりもない。私は自分の考えや解釈を誰かに押し付けようなどという気はないし、ましてや議論することなど全く無意味だと考えている。というよりも、そもそも神とはそういう存在ではない。議論や対話によって弁証法的に証明したり、その本質に近づけるものではないと私は思う。そうではなくて一個人の内部で、魂の活動を通じて感得されるものである。よってそこには元々、自分の体験と解釈しかないものであるが、何かしら神について感得されたことによって自分という存在の根底が魂の領域で拡張され、凝り固まったエゴ(つまり損得)から離れて、思考や精神にある種の普遍性や他者性が獲得されるに至ったと自己認識されるところの境地がある。もちろんその境地とは自分で勝手に自己評価するだけのものだから、錯覚かも知れない。しかしそういうことは本来、客観的に第三者に説明したり、同意を要するような性質のものではない。なぜなら誰か第三者に理解してもらえたり、評価してもらうことで、自分が得をしたり、偉くなったように思えたり、気分が良くなるということは、それは正にエゴの領域であるからだ。そうではなくて普段の日常生活の中で、エゴの領域に戻ることも出来れば、エゴを離れて神を追求するところの視点で世界を見ることも出来るようになった時には、魂の自由度が高まっているということを意味する。それが救われるという意味の本質であると私は考えるものである。神を思念し続け、ブレイクスルーすることによって、魂は囚われの牢獄から抜け出して自由を獲得する。そうして初めて、何で自分の魂がそれまで囚われていたのかが客観的に理解できるようになる。そしてその状態、境地とは、必ずしも仙人のように浮世離れした人間になることを意味するものではなく、絶えずエゴが渦巻く日常世界に立ち返って、新たな精神と思考で日常の問題に立ち向かうことである。自らの魂が抑圧から解放されることで、時には自分を取り囲む問題そのものが、あたかも自律的に解決に向かって終息してゆくが如き不可思議さを目撃するということである。そのメカニズムとは、いやそれよりも先ず、神の定義についての話であった。いきなり核心について触れても理解してもらい難いことであろう。ただ私は、神を個人的に追求するということは、世間的な権威付や社会的に共有された価値観を疑問視し、勇気を持って、自主的に考えるということが第一歩であるということを伝えたかっただけである。
一口に神と言っても、それでは神と仏はどう違うのであろうか。根本的に異なる性質のものなのだろうか。日本では昔から神仏習合とか神仏分離が唱えられてきた。その点に関して、私はわからないとしか言えないが、勝手に想像するところはある。もちろん間違っているかも知れないが、元々は同じなのである。但し人間の立場から見れば、人間により近い存在が仏なのだと思う。例えば刑事ドラマなどでも、刑事は殺された被害者の遺体を仏さんと呼んでいる。実際の捜査の現場でもそう言うのかどうかは知らないが、人間は死ねば仏になると考える慣習が、少なくとも日本にはある。しかし死んで神になるとは決して言わない。神さまの元へ行くなどと言う。人類学的にこれをどう考えるかと言えば、仏とは人間の救済者なのである。仏は、人間を救うために人間の世界に降り立ってきて、人間に寄り添ってくださる非常に有難い存在である。それで人類の長い歴史の中で人間と仏の境界が曖昧になってきて、生きている間は煩悩とか邪念で仏性の顕現が遮られているが、人間は死ねばそれらから離れて完全な仏さんになると考える。また生まれてきたばかりの赤ちゃんの寝顔を見ていると、本当に清らかで仏さんのお顔のように見えるということもある。ならば人間と仏とは本質的に同じ存在なのかと言えば、そうとも言えない。仏とはある意味では、人間に近くて親しみやすい存在であるかも知れないが、神格も兼ね備えている。仏教においては、仏法の守護者として、大黒天とか毘沙門天などの化身が存在するが、それらは人間とは隔絶した神である。インドの古代宗教であるバラモン教ヒンズー教などの土着の神が、仏教に取り入れられて習合されたものが日本に伝わって現在においても信仰されているのであろうが、要するに仏の世界も神々とは無縁ではないということだ。但し仏教の世界観とは、人間がより良く生きるための知恵や教えが最上位にあって、仏教の神様はそれらの法や信仰を外敵から守る役割であるというところに特徴がある。今やそれら仏教の守護神が人々の人気を集め、独立して信仰の対象となり様々な寺院で祀られているが、仏教の本質とは、私はあくまでも人間が中心になっている教えなのだと考えている。いかにして、人間を救うかということが仏教の永遠のテーマであって、そのために仏は守護神の力をも伴って人間界に寄り添い続ける。そして人間もまた様々な煩悩や業に苦しめながらも、基本的には仏性を備えた存在であると考えられている。ところが神とは何かと言えば、日本の神話上の天照大神素戔嗚尊などの国生みの神々はともかくとして、西洋においては人間そのものの創造者であるとされるところにその大きな特徴がある。仏教のように人間の生き方を守護する存在ではなくて、人間の創造者であるから、人間に対するあらゆる権利(すなわち審判の日に滅ぼしたり、生かしたりすること)を保有していて、とてもではないが人間が親しめる対象では有り得ない。そういう恐ろしい神と親しみやすい仏は、私は元々は同じであると考えている。私は神とは、最終的に人間を罰したり、救済することはあったとしても、通常は人間の生活や活動に対して干渉したり、関与する存在では有り得ないと考える。だからある意味において神の本質とは、人間への無慈悲と冷淡さにあると言える。遠藤周作氏の小説のタイトルのように神とは『沈黙』し続ける。イエス・キリストでさえも処刑される直前には、「神よ、なぜ私を見捨て給うのか。」と叫んだと言われている。宗教上の教義はともかくとして、私はこの宇宙や人類を創造した神は、万物の創造者であるゆえに、物質世界の「外部」に位置する存在であって、宇宙の変遷や人類の進化を見つめる眼差しはあってもそのプロセスに関与しないものであると見ている。つまり宇宙内部に流れているものはどこまでも物質の法則と、人類や宇宙人の自由意思だけである。ただし神の介在がないとは言っても、宇宙内部の人間存在や生命の進化は、元々が神によって創造されたものであるゆえに、神性や神の意思と深く結びついている。結びついてはいるが、太古の昔のことゆえに人類はその結びつきを意識出来ずに、忘却してしまっているのだと思われる。万物の外部に位置する神は、人間生活に入り込んで個別に救済するようなことはしないし、またし得ない。人間が、神との元々の結びつきを思い出すことが出来るだけである。しかしそれだけではあまりにも救われない人間がこの地上には多すぎるがゆえに、さすがの神もある時に人間に対して哀れみを抱いて、自らの存在を分化させ、より人間に近い様々な神を作って宇宙の内部世界に派遣したのであった。仏や仏教の守護神などもその一部であると思われる。またそれらの仏や神がより人間に付き添い、救済するために天使に変化したり、時には人間に化身して地上世界に生まれることもあるのであろう。神々の世界は人間界以上に階層的で多様性に満ちているのだと考えられる。それで私が個人的に神という場合は、宇宙や人間など万物の創造者であるところの神である。神を思念するとは、仏教の守護神ではなく宇宙全体の創造者である神を意識している。その理由は、結局、自分の問題を深く考える時に自分とは何かという哲学的な追求が必要となるが、自分の属性とは男であるとか日本人であるということもあるが、最も基盤となるところは、言うまでもないことだが人間であるということである。よって人間とは何かという追求が不十分であれば、必然的に自分のことも本当はよくわからないのではないかと思うのである。果たして人間とは何なのか。どうしてこの宇宙に生命は存在するのか。人間が地球という惑星の美しい自然を破壊し、お互いに戦争で殺し合うだけの生き物であるなら、その存在の必要性は神という絶対的な存在を措定して考えたときに、一体どこにあるのだろうか。こういうことを考えるに人間の不幸とは、我々が今、この瞬間に人間であるという単純な事実があまりにも当たり前過ぎて、宇宙に人間が存在することの必然性や必要性が、これだけ科学が進歩した今日にあっても、実は何一つとしてよくわかっていないし、また謙虚に追求しなければならない生存上の理由も理解できていないところにあるのではないかと思われるのである。だからこそ人間は、人間という存在を絶対的な神との関係性において追求し、神の被造物であるところの神性を思い出し、その相対性の範疇で謙虚に生きるという姿勢がなければ、自分自身の役割もよくわからないし、幸福にもなれないということになるのではなかろうか。また人類全体で見ても、全体として大きく道を踏み外していくことになるのだと思われる。話しが少し大きくなり過ぎたが、神を思念するとは、人間存在とは何なのかという哲学的な問いかけと深く結びついているということである。これが仏を思念するということとなると、思考が自分自身の仏性であるとか、山川草木悉有仏性だとか、犬にも仏性有りや否や、などの禅問答のようになってしまって、自分という存在に絶対的に対峙する対象が不明瞭になるがゆえに、自分という存在性も曖昧になって今一はっきりしないということとなるように感じられる。しかし仏は人がこの人生を生きていく上での苦しみは確かに和らげてくれるものである。なぜなら人が人生を生きる苦悩の根源は、仏教的には「執着」であって、要するに自分という仮空の存在性に囚われすぎているところにあると考えられるからだ。仏教的には自分という存在は空であって、実体ではないのである。そしてそれを知るときに人間は生存上の苦しみから救われるのである。次回に続く。