龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

新聞とパチンコ

マスコミがパチンコ批判をしない理由を知りたければ、新聞の朝刊を開いてみればよくわかるよ。何、わからない、そんな記事はどこにも出ていないって。相変わらずの馬鹿だな。新聞がパチンコ業界の問題を本気で追及するような記事を載せる訳がないじゃないか。どこを見ているんだよ、折り込み広告を見れば、一目瞭然じゃないか。何、それでもわからない、折り込み広告にもそんな記事はどこにも見当たらないって。もう、いいよ。君とは、何も話したくない。
 と、今回はこのような小話から入らせていただくが、まあ、そういうことである。そういうこととは、世間一般大衆の社会に対する認識力とは、特に馬鹿にするつもりもないが、その程度のものであるということだ。賢明な読者の方には、くどくどと説明するまでもないことだが、新聞の朝刊には、毎日のように多数のパチンコ店の折り込み広告が挟まっている。新聞販売店の経営は、地元パチンコ店の広告によって成り立っているといっても過言ではない。もちろん厳密には新聞社と新聞販売店は別会社の経営であるが、パチンコ屋の新聞折り込みへの広告出稿が、新聞と言う商品の特殊な宅配制度を支えているという現実を前にして、果たして新聞社に19兆円産業のパチンコ業界を「ほんの少しでも」敵に回すような正論を主張する「公共性」と「社会性」が、あるのかということである。新聞販売店の経営が行き詰ってしまって、新聞の宅配と言う流通網がなくなってしまえばどうなるかと言えば、新聞は他の雑誌や書籍と同じように店舗で販売されることとなる。そうなった時には、当然に現在と同程度の部数を維持することは不可能であろうし、また一般商品と同様に顧客の市場選別性が強まることとなるであろうから、淘汰され廃刊に追い込まれる新聞社が多数出て来ることとなるのは必然である。要するに新聞という商品が、これまでの保護政策から外されて、市場が健全化されるということは正にそういうことなのである。よって新聞社は独自の優越した社会的地位と利益を守るために、新聞販売店の経営を支えているパチンコ業界の矛盾や闇と結びつかざるを得ないというか、もう少し上品に控えめな表現をすれば、決して必要以上に問題視できないということである。まあ後者の控えめな表現の方が実態に即しているとは思うけどね。何故敢えてそういうことを述べるかと言えば、私は不当に新聞を貶したり、悪く言うことは避けたいという思いがある。当然に日本の新聞には、国際的に見てもある一定の品位とモラルは備わっているとは思う。すなわち全面的に否定できる「商品」ではない。そういう長所を無視して、世間からエキセントリックとも受け取られかねない新聞批判を繰り広げたところで、それは結局は新聞の偽善や欺瞞体質と同じ穴の狢に陥ることを意味するものでしかないと思う。一旦、そうなってしまえばもはや新聞やTVなどのマスコミ勢力の思う壺である。マスコミは情報を通じて、表面的には違うようには見えても本質的には同じ穴の狢を養成しようとするものである。言うまでもなく、その方が操作しやすいからだ。一つ穴の民主社会とでも言うべきか。大衆は蟻地獄のような情報操作によって、精神的に見動きが取れなくなってしまっているのだと見れる。何が正しくて、何が間違っているのか、新聞やTVが一つの権威の下に指示してくれないことには自信が持てないのだ。自分自身の頭で考えると言う当たり前のことが、とてつもなく恐ろしく罪深い逸脱のように感じられる。それでいながら思想信条の自由が憲法によって保証されているのだから、自分自身の考えや個性を大切にしなさいなどと教導されるものだから、政治やマスコミによって与えられ企図されている情報をあたかも自分自身が自主的に選択しているが如くに洗脳されていくこととなる。政治とマスコミの一体性がまったく理解できていない。冒頭の小話のように、社会的な善悪の規範を無意識の内に、新聞の記事や折り込み広告の中にすら求めてしまって、その背景を自分で考えようという発想が出てこない。大衆とは押し並べてそういうものだと言ってしまえば、それまでだがどうなのだろうか。前回に述べたヘイトスピーチに対する法的規制の報道についても、確かに人種差別や暴力的な示威活動に問題があることは万人にとっての共通認識ではあろうが、その一つの悪を排除するために、包括されているところの別の問題や悪がなおざりにされたり、破棄されるような情報操作、構造がある時には情報の受け手側である我々はもっと精細に検証しなければならないのではなかろうか。一つの善に大衆の目を引きつけておいて別の悪を隠ぺいするという操作は、マスコミの常套手段である。あまり若者たちの夢や希望を打ち壊すようなことは言いたくはないが、それでも重要なことなので言わざるを得ないが、基本的に社会全体の正義とか善は、「強者の論理」なのであって、日本の歪みの根本はマスコミが弱者に寄り添っているような形式を保ちながらも、実は政治よりも強者であるというところにある。右翼や左翼の区別はあまり関係ないのだ。政治が強くなり過ぎれば、戦争になったり、民意が損なわれるとして、マスコミがいつまでも大衆を代弁しているような構図がある限り、日本の民主政治は成熟されないのである。なぜなら政治とマスコミは、少なくとも持ちつ持たれつという以上には構造的に結託しているからである。その象徴が、大手新聞などマスコミの過保護と社会的な厚遇である。うーん、お分かりであろうか。私の言っていることは伝わっているのであろうか。分かる人は私以上に分かるのであろうし、分からない人には永遠に分からないというか、そういう人々(多数)からは私は無視され続けるのであろう。どこか私は世間的には夏の幽霊のような存在である。うらめしや。