龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

君は雲を見たことがあるかい

君は雲を見たことがあるかい。
雨じゃなく、雲だよ。
Have You Ever Seen The Rain?
の雨、つまり空から降り注ぐ爆弾ではなくて、
マグリットが、飛翔する鳩の羽を透かせて描くような
超現実的で平和の象徴としての雲のことだよ。
 
 
空に白くぼんやりと浮かんでいる雲のことを
決して侮ってはならない。
雲は、茫洋とあてもなく漂っているだけではなくて、
いろいろと考えているんだよ。
考えているというよりも、
企んでいるといった方が、正しいのかも知れない。
自らがどういう雲になるのかということを、
風に流されつつ、企んでいるのだ。
 
 
雲は宇宙からは
太陽や無限の星々の光を受けることで存在を祝福され、
無上の歓喜に包まれているのだけれど、
地上の大地に向けては、その恵みの光を見えなくさせたり、
弱める遮蔽物でしかない。
そして、そこに雲の苦悩の根元がある。
雲は、神の恩寵によって成り立ってはいるのだけれど
その源の光である神の真実を
他者に隠したり、見えなくさせるという矛盾を抱えて存在している。
実はこの世の全ての存在物とはそういうもので
神の真実を遮蔽するからこそ
原因と結果の因果律が発生し、そこに時間も流れる。
でも雲は定まった形も大きさも持たずに
神の光を遮ると同時に幾分かは透過させてもいるから
魂に似ていると言える。
 
 
一片の切れ端の雲は
思い悩み、苦悩している。
どうして神々の祝福である光をこれほどまでに享受しながら
下界の地上に対しては、
自らが遮蔽物となることで、薄暗くも
真実の妨げとならなければならないのかと。
しかし所詮は、物質とはそういうもの。
物の存在性とは、神の無限の栄光に浴しつつも
その神々しき光を遮断し、
否定することに他ならないのだから。
だから地上の全ての存在は
神との関係性における
その自己矛盾の中で、絶えず苦悩し続けることが
本来的に正しい在り方であって
逆説的には神の絶対性を肯定することを意味するのだ。
 
 
しかし一片の切れ端の雲は、虎視眈々と企んでいる。
自己矛盾と背理の重みに
雲としての“存在の耐えられない軽さ”が持ちこたえられずに、
ある日、ある瞬間に、大きな一団にならんとして
寄り添い、群れ始めることとなる。
一旦、その方向に雲が意志を持って運動し始めると、
もう雲と神との個的な関係性が問われることもなくなる。
黒々とした雲の群れは、
神に背を向けて、隈なく地上世界を覆い尽くす。
そして時折、談合的に雲の合間から一筋の日の光を
差し込ませて下界の人間を感動させたり、
旱魃で干上がった大地に恵みの雨を降らせて感謝されたり、
あるいは降り止まない大雨で河川を氾濫させ威嚇したりもする。
そこにはひと切れの雲の苦悩はまったく消滅していて
下界に対して影響力を行使し得る全能感が
雲の存在理由へと成り代わってしまっているのだ。
 
 
集団や群衆とは、
神との関係性における個的な苦悩を消滅させて、
何か別のものに転換させてゆく社会的な装置であるとも言える。
その歴史的な延長線上で
時には空から爆弾が雨のように、
降り注いでくることもあるということだ。
 
 
 
ああ、人間がひと切れの雲の如く
苦悩しつつも、ただひたすらに神との関係性さえ模索していれば
世界に戦争が起きることなど無いであろうに。
或いはこれほどまでの甚大な被害を人間世界にもたらす天災が
神の怒りの如く、何度も何度も繰り返し、
発生することもないのではないのか。
 
 
 
人間は一片の雲だ。
神の光を遮りつつも、透過させる、ふわふわとした魂だ。
私は空にそのような儚くも美しい雲をいつまでも見ていたい。
しかし人間世界の魂という雲は
いつの時代も悲しいほどに
黒々むくむくと悪魔的に雲集するものではある。
 
 
 
ああ、君は雲を見たことがあるかい。
我々自身も雲なのだ。
頼りなくも半透明状に
きらきらとした日の光を反射させながら
風に流されゆくひとかけらの雲である。
野心的に、雲以上の何かになろうとすれば
世界を支配しようとすれば、
神の恩寵から離れてゆくばかりである。