龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ノスタルジアの妄動

政治家という人種は、引退して忘れ去られてゆく存在となるとノスタルジーの念に苛まれて、また注目を浴びる言動をしてみたくなるのだろうか。年老いて尚、意気軒昂な存在感を示すのは当人にとっては意味のあることなのかも知れないが、世間一般ではどのような反応なのであろうか、私個人的には醜悪な印象にしか感じ取れないものである。たとえば鳩山由紀夫氏などもそうであったが、総理在任中には友愛の理想論はともかく、現実には何一つとして成果を残せなかったのにも関わらず、引退してから何を血迷ったのかわざわざ中国を訪問して、尖閣諸島は中国の領土などと発言する。引退してから総理在任中の時を懐かしんでいる内に、ある日、突如として東アジア共同体への先駆者として歴史に名を刻みたくでもなったのであろうか。しかしそんな突飛な行動をしたところで周りに多大な迷惑をかけることにしかならないことぐらい分からないのであろうか。それではルーピーなどと蔑まれても仕方ないところである。
小泉純一郎氏の発言も私の目には同じである。小泉氏も鳩山氏と人種的な共通項が大きいのではないかと見受けられる。最近の小泉氏は精力的に脱原発活動に励み、安倍総理に対して即時原発ゼロの決断を迫っているとのことである。先ず、マスコミ(特に朝日新聞)の報道のあり方にも問題が大きいかと思われるのだが、現在の日本の原発状況を正確に記せば、現時点で原発の稼動は既に0である。
しかしこの1年間の稼働状況で見れば、大飯原発の3号機が9月1日まで、4号機が9月14日まで稼働していたことと、安倍総理がこれまでの原発政策を継続させるとの意思表明をしていることから、来年度の電力需要が増える夏場に向けて大飯原発の同機が再稼働となる可能性が高いと見られるものである。しかし2011年の震災前は、50機の原発がほぼフル稼働で日本のエネルギー供給全体の約3割を占めていたのが、今年度は原発への依存度が既に2%程度にまで抑えられており、その割合が来年度以降も急激に増える見通しにはない。よって言葉の定義にもよるが、現時点で既に日本は脱原発社会へと転換されていると見れるものである。もちろん福島原発であれだけの大惨事を発生させているので、即刻0にせよ(というよりも正確には現時点で0だから、今後一切の原発を再稼働させるな)と意見もあって当然だとは言えようが、冷静に考えれば福井県大飯原発は、地震の被害はともかく、日本海に面しているので太平洋沿岸地域のような大きな津波被害も考えられないものであり、2011年の震災発生前の状況と比較すれば、現在及び今後の日本が再び原発事故に見舞われる可能性は0ではないにせよ、微小なものにはなっているのである。ところが一部のマスコミ報道(特に朝日新聞)を見れば、日本の原発依存をこのまま放置しておくと、震災前の状況に近いところまで原発稼動が復活される可能性があるとの印象操作に基づいており、国民全体の正確な判断をミスリードさせる内容であると言えるものである。結局そこにある構図は、マスコミ主導で原発推進派、対、脱原発派の対立軸を世論に植え付けて、マスコミ自体のプレゼンスを高めてゆくという、いつもながらの手法ではないのか。そしてその舞台に、お調子者の小泉元総理が政治へのノスタルジックな感慨を伴って参入してきているのである。私が小泉氏に対し鳩山氏同様の嫌悪感を感じる理由は、先ず第一に、小泉氏は総理在任中は原発について詳しく知らなかったので最もクリーンで安全なエネルギーだと考えていたが、福島原発の事故後に自分なりに勉強して考えが変わったから反対しているのだと、何ら悪びれることもなく、のうのうと述べているところにある。原発0への提言もよいが、それ以前に原発を日本に誘致し、その絶対的な安全神話を国民に広く喧伝してきた当事者が、そもそも自民党であり、小泉氏は総理在任中の5年間だけでなく自民党議員として37年間もの間、原発事故の潜在的な危険性を看過してきた責任は、現在政界から引退しているとは言え、決して免れているものではないのである。もちろん小泉氏だけの問題ではないが、日本で初めて原子力発電が行われたのが1963年で(それは私が生まれた年でもあるが)、1972年に初当選して以降、2009年に引退するまで自民党一筋であった小泉氏の政治年表は、日本における1963年の原発誕生と2011年の福島事故による日本全体の原発停止とほぼ重なっているのである。引退してから勉強してその危険性がよくわかったなどと子供みたいに無邪気なことを言っているが、それなら引退するまでの議員時代は一体、何を考えていたのかということになる。郵政民営化への執念でそれどころではなかったということなのか。すなわちこれが日本の危機管理のレベルなのである。もちろん原発完全廃止を望んでいる国民は多く存在するから、小泉氏の発言は世間の耳目を集めて支持もされるであろうし、議員時代に結果的に看過してきた責任があるからこそ今、こういう主張をするのだというロジックも成り立つのであろうが、それでは往年のパフォーマンスと何ら変わらないものである。小泉氏が道義的になすべきことは、原発0への提言の前に、どうして原発がクリーンで絶対的に安全なエネルギーだなどと総理の立場にある者でさえ疑い得ないほどの神話が日本に広く深く醸成され、その幻想が48年間もの間、維持されることとなってきたのかを、巨額の原発マネーと政治決定の関連も含めて、知っていることは全て国民の前に洗いざらいに公開し、知らないことは徹底的に追求すべきではないのか。そしてその大いなる反省の上に、原発即時0を訴えてこそ説得力をもつものである。総理在任中は何も知らなかったから、誰かから説明されたことを無条件に信じていたでは、子供の言い訳と同じである。これこそ正に政治不在の正体ではないか。何が構造改革だ。もう一点は、小泉氏は今でこそ気楽な立場でそのような主張をしているが、仮に今、小泉氏が総理の立場であれば原発即時0などとは決して言わないであろうことが、確信し得るということである。選挙の前や政権から外れた立場にある時には、多数の世論に迎合する理想を鼓吹し、権力の中枢に収まった時には手のひらを返したように言うことが変わるということに私も含めて国民の多くは、ほとほとうんざりしているものである。「私が首相になれば、いかなる批判があれども毎年、必ず8月15日に、靖国神社に参拝する」などと言っておきながら、首相在任中は一度も8月15日に参拝しないようなことがその一例だ。だからこそ私は幾分かのアイロニーを込めた倒置の論法で、国民が権力者の立場でより現実的な政治的選択を思考し、そして表明することが、日本の政治の質を底上げしていくためには肝要であると考えているものである。ノスタルジーか何か知らないが、相も変わらずパフォーマンス言動の癖から離れられない小泉氏のような人間の存在感は、腹立たしくも迷惑なだけである。口調から思考回路の中身まで、何から何までそっくりのようではあるが、若いだけあって息子の方がまだましのようである。