龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

新聞と私

もう年末か。早いものだな。紅葉のシーズンが来て、クリスマスで、大晦日、そして正月とあっという間である。それはそうと毎月の1ヶ月という期間の中で、私が最も不愉快な気分になる瞬間は、せこいようだが朝日新聞が集金にやって来た時である。新聞は読売と朝日の2紙を取っている。読売の集金の時も決して愉快ではないが、会社の経費で落としているのでまだ我慢できる。朝日は自費で支払っているので、集金のおばちゃんが来た時には露骨に不愉快な顔になっている(と思う)。それなら朝日も会社の経費で落とせばよいではないかと思われようが、私は性格的に律儀なので、儲かってもいない零細会社の分際で今時、新聞を2紙も取るのは贅沢だと税務署からお叱りを受けるのではないかと心配して、後から契約した朝日だけは自腹で支払うことにしているのだ。零細会社であっても、私は個人の金と会社の金は厳密に分けている。いい加減にぐちゃぐちゃと混同したりはしない。それが私の性格だからだ。私の性格はともかく、まあそれも多少は影響があるのかも知れないが、読売と朝日を毎日何となく見比べていて思うところはある。どちらの新聞も私は別に愛してはいないが、(愛していないどころか、腹立たしいことばかりである)、両紙の対比で感想を述べれば、特に朝日の方について思うところが多く、それはイデオロギーで日本という国は良くなっていくのだろうかという素朴な疑問という以上に憤りである。イデオロギーとは何かと言えば、一般的には思想ということになるが、そうではなくて、わかりやすく言えば反対のための反対である。反原発憲法改正反対もれっきとした思想ではなく、反対のための反対というイデオロギーなのだ。とは言っても反対のための反対がいつも的外れかと言えば、そういうことでもなくて、時には正鵠を射ていることもあるにはある。動機が不純であっても、単なる天邪鬼であっても、反対のための反対が正しい方向性を指し示していることはある。しかしそれは野球で言えば、ファーボールばかり出している投手みたいなもので、いくらコントロールが悪くてもたまには、まぐれでストライクにもなる。しかしたまのストライクではゲームに勝てる訳がないから、普通なら監督の采配で投手交代である。ところが新聞というピッチャーは、反対のための反対でファーボールというか、国益にならない球ばかり投げていても交代を命じられる監督はどこにもいないのである。それどころか相性の悪い打者ならぬ政治家の頭めがけて続けざまにピーンボールを投げても退場にはならない。なぜならそれが日本の民主主義を代表していると言われれば、誰にも反論できない社会の仕組みになっているからだ。それだけ新聞は、民主主義の担い手としての絶対的な地位と信用性が、国家権力によって保証されているのである。しかし今や国民は、新聞と言うピッチャーの元々のノーコンぶりや、反対のための反対たる暴投が試合をぶち壊していることにしかなっていないことを皮膚感覚的にはっきりと理解し始めている。文化財のように後生大事に保護すべき対象でないことを万人が気付いているのである。ところがほとんどの大衆は、悲しい事にその正しい感覚を論理的に言葉で説明することができない。特に若者がそうで感覚は優れているが、論理がついてこないので、あたかも兵役忌避の如く、新聞購読拒否をするばかりであり、その理由を社会的な次元に置き換えて説明しようなどとは思いも寄らない。もちろんそんなことをしても何の得にもならないからではあるが。そしてその傾向を新聞社は、新聞離れではなく、「活字離れ」だと言ってごまかそうとする。しかし活字離れなどではない。人にもよるが若者は結構、読書をしているものだ。むしろ私のように50歳にもなると目が弱くなってくるから本を読むのは疲れるが、若者はそんなこともないので読書スピードも読書量も中年よりも遥かに優っている。今の時代にあっても本好きの若者は昔と比べて、決して少なくはないと思う。しかし若者の新聞離れは歴然としている。そのような時代にあって、私のような中年が不愉快な思いを抱きながらも2紙も新聞を取っている理由は、先ず第一には、選挙の投票率みたいなもので一票の格差ではないが、新聞と言う媒体がノーコンであろうがピーンボールであろうが絶対的な地位を国家権力に保証されている以上、購読者が少なくなるほどに、その新聞購読者一人当たりに対する影響力の比重を高めている事に、すなわち世の中全体が新聞社に都合の良いように操作されやすい社会環境になっていることを意味すると考えられるからである。新聞購読を忌避している層は、いわば消極的な意思表示であって、現在の社会環境での元では結果的には不投票と同様に、数の内には入れられていないということとならざるを得ないのである。だから若者に無理をして新聞を取れと言うつまりはないが、私のように積極的に新聞を批判する人間も必要であり、批判しようと思えば、最低でも2紙はざっとでも目を通す必要があるということだ。本当は読売と朝日だけでなく、産経や毎日、日経も取って日々の言論の全体像を掴みたいのであるが、経済的にも時間的にも無理があるし、毎週日曜日に近くの図書館に閲覧に行って、1週間分まとめて目を通す事も考えてはいるのであるが、そんなことをすれば、腹立ちのストレスが私の精神的な許容量をはるかに超えて、いつの間にか発狂するのではないかと本気で心配なのである。読売と朝日だけでも大変なもので(特に朝日の方だが)、まともにその編集やレトリックの誘導に付き合っていると頭がおかしくなりそうなので、自分の精神衛生を守るためにも、通りがかりの綺麗な女性をちらっと盗み見するようにしか記事を見ない事が多いものである。(これは適切な喩えではないかも知れない。盗み見するほど魅惑的という意味ではなく、見飽きた女房の顔色を横眼でちらっと伺うという程度のもの、いや、これもちょっとおかしい。・・・もうどうでもよい。)とにかく、そういうことで私ひとりでは、いろいろな意味で負担が大き過ぎるので、一人でも多くの人が私のように積極的に新聞の記事内容と、新聞という媒体の在り方を批判するためにこそ、新聞に目を通し、そしてそれを自分なりに積極的に表現して欲しいと願うものである。第二の理由は、ほぼ第一と同様ではあるが、新聞と言う媒体メディアは元々、国家権力を監視する民主主義の土台という建前で保護されているものだが、現実にはまったくそうなっていないということである。国家権力を監視するどころか、国家権力に都合よく国民を洗脳する道具へと成り下がっている、というか元々そういうものなのかも知れないが、とにかくそういう状況なので、我々国民が国家権力の僕でしかない新聞論調の成り行きをしっかりと監視しなければならないということなのである。テレビのバラエティ番組に出演して、ちゃらちゃらと論評しているような文化人はそういう役割を何一つとして果たしていないし、元々そういう精神も持ち合わせてはいないものである。ただの軽薄な馬鹿なのだ。我々無名の国民一人一人が自分なりのやり方でその役割の在り方を追求し、あくまでも合法的に実行していかなければならない。そしてそれだけが、日本という国を変革してゆく唯一の道であると、嘘偽りなく、本気で私は信じているものである。