龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

モノの思想 2

国内の消費低迷は、政治だけに原因があるのではなく、日本人の極端性の表れとも見れる。豊かな貯蓄があって経済的に余裕のある層までもが、金を使うのが悪であるかのように財布の紐を固くしばって日々、節約に努めようとする。実際に街中で暮していれば、身の回り品は、100円ショップに行けば大抵のモノは揃ってしまう。しかし100円ショップでばかり買っていて、消費者の満足度が高いかとなれば、必ずしもそういうことはない。ホッチキスひとつ取ってみても100円で買ったモノは、はっきり言ってすぐに壊れてしまう。300円や400円出しても、メーカー品のコクヨやマックスのモノはやはりしっかりしていて簡単に壊れたりはしない。2回や3回、使っただけでは差はないが、1年ぐらい使っていると違いは歴然としている。100円で買って半年ぐらいでゴミにするのと400円で買って10年使い続けるのではどちらが得か、という話しになる。また人間の心理は、粗悪品を安価で買い続けてばかりいる状態に安住できるようにはなっていない。必ずいいモノが欲しくなってくるのである。個人的な例で言えば、私はダウンジャケットを持っていないので今冬は買おうかと迷ったのだが、ユニクロやスーパーに行けば2千円台や3千円台のモノも売っていたが、さすがにそのような安物は抵抗があるのでデパートなどに見にいけば4万円とか5万円など極端に高いのであった。そこまでいいモノを欲しいとは思わないし、また買う余裕もない。2万円ぐらいまでで国産品のしっかりしたモノがあってもよさそうなものなのに、そのような値頃感の商品は需要はあってもマーケットに出回っていないのである。もちろん私が店や商品を知らないだけかも知れないが、これらの傾向も、国内産業が完全に空洞化してしまっている結果で、廉価品と高級品に2極化してしまっているのである。そうすると結局、私のように、もうダウンジャケットなしでもいいや、ということになってしまって、要するに景気が回復へと向えないのである。基本的に日常生活の中でモノとどのように付き合ってゆく傾向に日本が向かっているかと見れば、やはり値段が少しぐらい高くとも、いいモノを末永く使いたいという心理はあると思う。それが成熟した資本主義社会の一つの到達点というか民度ではなかろうか。モノにも心があると考えられる精神性の社会では、安物を買ってすぐにゴミにするよりも、品質のよいモノを選んでとことん使い続けようとするところに自然と落ち着くであろう。大量生産、大量消費ではなくとも、粗悪品、廉価品ではない、いいモノが手ごろな値段で売れるようになれば、全体として見ても消費マインドは確実に上向いてくるであろうし、今のような不景気に留まり続けることはあり得ないはずである。ところが日本は、日本独自の資本主義的な推移に適合した文化というか、生き方を模索しようとせずに中国や韓国のように、日本から見て資本主義の発展段階からすると明らかに後発で成熟に達していない国と同レベルの経済競争、経済協力に、国際化という名のもとに巻き込まれてしまっているから、このように先の見えない行き詰まりのような状態に陥っていると見れる。これは明らかに政治の責任だと思う。日本は日本の成熟に見合った生き方をしていればよいのであって、わざわざ後退してまで中国や韓国に歩調をあわせる必要などないのである。国の長期的な発展段階の中で、時間軸を取り外して世界を平面的に俯瞰すれば、自由貿易、国際競争力の強化という視点に偏ってしまいがちであるが、日本は先進国として、中国や韓国とは異なる価値観をしっかり持たなければならないと思う。またそうすることでしか日本の経済と文化は活性化を取り戻せないであろう。日本は独立国家として自らの成熟段階にふさわしい生き方すら出来ない状態に押しやられているのである。国民の不幸の根源がそういうところにあることをしっかりと認識しなければならない。
日本人にとってのモノとの付き合い方は、モノを離れて、平和思想、安全保障の問題とも繋がっているように考えられる。竹槍で戦闘機を打ち落とせないのは当然のことで、資源の弱小な日本が国家総動員体制でアメリカに立ち向かっても、結局日本の精神主義アメリカの物量作戦や核兵器の前に敗北させられることとなった。敗戦後の日本は驚異的な復興を遂げ、経済大国にはなったが、金儲け主義への邁進の中でモノの声なき声を聞いたり、自然とモノの心に同調するような精神性を喪失してしまったのではなかろうか。元々日本人はそのような豊かな精神性を持っていたと思われるのである。これからの日本人はモノを精神に対立するものとしてではなく、協調的な視点で観察した時に一つの新たな地平が切り開かれることを教訓とすべきではなかろうか。人間の肉体も一つのモノであるのだから、最終的にモノがモノを否定できないことは自明である。モノがより強固なモノに打ち負かされたり、時間の中で老化したり風化する運命からは逃れられない。しかし対立的な視点ではなく、協調的に魂の次元でモノを見た場合に、モノもまた心を持ち、観察者とモノとは根源のところで何かが同調する。これは共時性量子論にも通ずる世界であり、また般若心経の“色即是空、空即是色”の教えとも通底しているであろう。このような次元で多くの日本人がモノと共に静かに生きていくことを学べば、不要な戦争に巻き込まれたり、攻撃の標的になることを回避し得る可能性があるように私は考える。また個人は事故や災難から自然と免れることが出来るようになるかも知れない。日本は、憲法戦争放棄を定められているが、私には自己満足に陥っているとしか思えない。平和憲法は世界的にもリスペクトされているようには見えないし、いくら憲法の条文が立派なことを謳ったところで、政治が世界中で戦争ばかりしているアメリカの傀儡政権で、一般国民の精神性も平和憲法に相応しいほど高くはないと看做されれば、有事に際してさほどの抑止力にはならないのではなかろうか。日本が独立国家として戦争放棄を唱え続けるのであれば、条文に相応しい極めて高度な倫理観、哲学、精神性または政治力を身に付けなければならないはずだが、とてもではないが今の日本にはそれらの能力が養われる土壌も見込みもない。特に政治の外交能力に至っては、ほとんど犯罪的と言ってもいいほど幼稚、低劣であることは全ての国民が認めるところであろう。こういう危険な状況が厳として存在するにも拘わらず、一つ覚えの呪文を唱えるように、憲法護持を主張する人間は、私には一体何を考えているかわからないものである。国防は何よりも重要である。今、日本が為すべきことは憲法改定をなし、自主憲法を出発点に、真に戦争放棄を世界に訴えるに相応しい国民性と政治の力を養ってゆくべきではないのか。