龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

人間の幸福と不幸についての考察 (上)

人間の幸福とか不幸という状態は畢竟するところ、どのような原因に帰結されるのであろうか。視点によって導き出される回答は様々であろう。先ず第一に健康も含めて、生理学的に考える視点がある。脳内物質のセレトニンなどのホルモンバランスが正常に機能していて、病気もなく取り敢えずは健康が維持されていれば、生存の最低レベルにおいて幸福であるとみなす考え方もあるであろう。しかし病気であっても幸福を感じている人も世の中には多くいる訳であり、健康か不健康というよりも不安とかストレスなどと深く関わっているドーパミンやセレトニン、オキシトシンなどの神経伝達物質の役割が大きいと考えられる。但し、抗鬱剤などの薬の力で不安を鎮めたり、精神的な活力を得ようとしても、長期的に依存していれば副作用の弊害が大きいものであり、ホルモンバランスも結局は自力というか自然治癒力で回復していかなければならないものであって、現代社会ではそれがなかなかに困難であるというところに不幸があるとも言える。酒でも加工食品の添加物でも、薬でもとにかく何でも大量に体内を通過させる消費経済システムにおいては、当然、個人差もあるであろうが、基本的に人間は中・長期的にはホルモンバランスを崩して不安症になったり、健康を害したりするようになっているものである。このような社会、経済システムが簡単に変えられないものである以上、私は人間が束の間の安心感や幸福感を感じるために、覚せい剤などは論外であるが、副作用がないと言われているマリファナぐらいは、合法化させてもよいのではないかと個人的には考えているが、日本ではなかなか難しいようである。私自身の経験で言えば、私は酒もたばこも止めてしまっているだけでなく、免疫力を下げるといわれている砂糖すら絶っているものであるが、酒やニコチン、糖分などの日常的な摂取習慣がいかに肉体や精神に悪いかということは、よくわかっているつもりである。そうして悪くなった肉体や精神が、薬の常用でさらに回復不能な状態にされていくものであって、高度資本主義における大量消費型経済は、人間を不幸にするシステムであるともいえるのである。
第二に、人間の不幸の原因は、世の中が表面的には見え難くとも、深層の支配システムにおいては、嘘や虚構で成り立っているところにあると考えられる。これは政治と報道の密接な関連性やごまかしを注意深く観察していればわかることであるが、そのような嘘や虚構性が人間の不幸に結びついているということについてまでは、考えが及ばないことが多い。なぜ考えが及ばないかと言えば、それが洗脳と言うものの正体であるからだし、そのような社会システムにおける不幸とは誰もが被るようなものではなくて、雪山登山におけるクレバス転落のようなもので、ある特定の人がある特殊な状況下で「不幸」にも社会制度の間隙に落ち込むことであるからだ。社会は全体として、善や正義で成り立っているかのように装われているが、それは一個人や一法人の不正や悪を糾弾する場合についてのみ当てはまることであって、統治システムであるとか支配体制に亀裂が入ってしまうような事実については、ほとんど全てが隠蔽されたり、無視されたりすることとなるものである。よって政治や報道が取り上げる問題とは、どこかの誰か(それがたとえ国会議員であっても)や、一企業だけを批判していれば済むような、日本全体の秩序であるとか虚構性の崩壊につながる危険性のない、問題性が薄いというか浅いマターばかりなのである。政治家の言葉尻を捉えた問題発言への批判などはその最たるもので、言ってみればそんなことはどうでもいいことでしょう。そのような罪のないどうでもいいことばかりが日本の民主主義の果てしないドラマのように延々として繰り返されるのであるが、そういうことは国民の幸福にも不幸にも何の関係もないことである。しかしそのような社会体制の中で、一部の人々は罪や落ち度はなくとも奈落の底にまで墜落するかのクレバスに滑り落ちてしまうようになっているのである。それは不可避的にそうなっていくものであるというよりも、ある意識レベルで見なければわからないと思われるが、意図的に地雷のように我々の生活や日常の空間に埋め込まれているものである。そのような社会の落とし穴に嵌るというか、地雷を運悪く踏んでしまうことが、不幸というものの本質なのである。例を上げれば、無数にあるであろうが、たとえば親切で誰かの連帯保証になったばかりに、破産においこまれたり、家や財産を取り上げられて一家離散になったり、最悪の場合には子供まで巻き込んで家族で心中するなどということにもなりかねないが、このような境遇は正に不幸と呼ぶ以外の何物でもないものだが、これは金を融資する側の資本家を守るための資本主義システムが、不可避的に一定数の人間に背負わせる必然的な帰結の不幸なのであって、言ってみれば不幸とは社会に必要とされているからこそ存在しているとも言えるのである。冤罪もまた同じである。痴漢などの猥褻行為の冤罪に遭って、無実を晴らすために一生を棒に振ったとなればこれもまた不幸に違いない。それではなぜそのような不幸が社会に必要なのかと言えば、正統的な考え方で言えば、もちろん痴漢などの迷惑行為が相当数、存在しておりそのような微罪を厳しく取り締まる上での副産物だということになるのであろうが、それは権力に寄り添った思考の在り方であって、疑わしきは罰せずの大原則に立てば、原理的には冤罪は発生し得ないのである。そうではなくて痴漢防止条例や性犯罪厳罰化の政治的な動向を推進し、また警察の検挙実績を向上させ、そのための広報、宣伝予算を確保するためには、冤罪の可能性が濃厚であったり、グレーゾーンであっても次から次へと流れ作業のように逮捕し、罰金刑を科したり、罪状を認めない人間は拘留の上、裁判に掛けて有罪にするという作業が必要とされる事情によるものである。その一方で元TBS社員によるレイプもみ消し疑惑のように、報道と政治の癒着が露呈されるような事案は、日本全体の秩序や民主主義の幻想にひびが入ってしまうので、それを防ぐためには、詩織さんのように被害に遭った人間が人間性を疑われたり、批判されるような事態を招くことにもなるのである。ここにも不幸というものの一つの典型的なプロトタイプがある。こういうことは全て、社会体制の間隙であり、地獄へ通じるクレバスなのだ。真面目に一生懸命に生きていても、いや真面目で正直な人間ほど社会を信用し過ぎているがゆえに、足を滑らせて落ちていく底なしの穴なのだ