龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

モノと人間存在の一考察

最近はAMAZONで本を買うことが中毒のようになってきて、毎日ではないが数日に1冊は注文をしてしまう。読むスピードや吸収する能力の限度を遥かに超えた量の本を買い集めても意味がないのだが、本好きの人にはわかってもらえるであろうが、ある一線を越えるとコレクターの心理になってきて実際に読んで満足するというよりも所持することで心が安らぐのである。この消費ではない、所有衝動の源には一体どういうからくりがあるのであろうかと時に考える。思うに人間は自らが消費し得る限度以上のモノを所有したいというある種の本能がいつの間にか植えつけられていて、その本能に支配されつつ生きているのである。つまりいわゆる何らかの過剰を求める欲求が実存と深く関連しながら人生が形成されゆくことが資本主義社会の一つの大きな特徴である。また多くの人々が過剰を求めるからこそ経済は回ってゆくのである。しかしモノはゴミでもある。現代ではゴミを減らすために、モノを所持したがらない人も一方では確実に増えている。またそれが慢性的な不景気の要因ともなっている。消費と過剰は経済的な分類では同一のカテゴリーであるが、個別に哲学的に見れば、明確に区切られる別個の性質を有している。消費とは厳密に突き詰めれば、消費しなければ生きていけない必要最小限度に限定することができる。購入されたモノが全て消費されているとは限らないし、また必ず消費されなければならない必然性がそこにあるとも言えない。具体的に言えば、私が買う本のように何年も前から読まれることもなく積まれるどころか段ボール箱に梱包されて仕事場の倉庫の片隅に押しやられているようなモノは購入されてはいるが、消費されてはいない。女性が買うブランド物の高級バッグのように押入れに仕舞われているだけで、一度も外に持ち歩いたことがないようなモノも同じである。それらのモノは必要性から買われたのではなくて、所有したいという欲求のゆえに買われているのである。それなら食品のように消費期限があっていつまでも置いておけるようなモノではなく、体内に取り込まれるモノは純然たる消費物かと言えば、それにも疑問を呈することができる。なぜなら食品や酒などは必要以上に摂取(消費)されて、年月の経過の中で緩やかにではあるが成人病になったり癌になったりする有害要因となっているからである。消費されてはいても消費する人間の健康を害したり、寿命を縮めたりするモノは必要限度を超えた過剰の悪である。それではなぜ我々人間は不必要にモノを所有することや我が身を滅ぼしてまで過剰に消費する行為、習慣を選択するのであろうか。おそらくは簡単に言えば、過剰の所有や消費が精神安定につながっているからである。窮極的にはモノを自我から切り離して、自分がこの世に真に存在していると心の底から確信することが困難であるからだ。所有とは外部世界への自我の拡大であると同時に即物的な自己確認や癒しになっているのである。このようなことを言えば、世の中にはいや、自分は価値の在るモノだけを集めているから収集そのものに意義があると主張する人もいるであろう。売買価格が数百万円とか数千万円もするような絵画や希少価値の高いモノが収集、所有されるることは確かに社会的な意義もあるであろうし、それがその人の内面的な豊かさや社会的なステイタスとして認められ称賛されることは、我々が生きている資本主義社会の価値体系においては当然のことである。しかしそれでもモノは所詮、モノでしかない。経済上の或いは文化的な価値を度外視すれば、高価な芸術品に囲まれて暮らしている人間も、ゴミを一切捨てられずにゴミに埋もれるように暮らしているゴミ屋敷の住人も精神性がモノの過剰に依存している点から見れば何ら変わりがないとも言える。(こんなことを言えば金持ちから怒られるかも知れないが。)そういう私自身、レベルは全然違う話であるが、読みもしないで無数に所蔵されている本は、ゴミでもあるとも見られるし、宝と言えば宝でもあるとも言えるし、その区分は実は自分でも判然としない。
唐突ではあるが、モノとは、いや人間とは一体、何なのだろうか。よくよく考えればモノと人間の違いも私にはよくわからない。人間の個性や能力は4種類の塩基配列による無限の組み合わせだけで決定されているのであろうか。人間もまた原子レベルで見ればモノではないのか。少なくとも生きている間はともかくも一旦死んでしまえば、人はモノに還っていく。ということは生命とはモノの延長上にある何らかの付加なのである。仮に本当に髪の毛が生え伸びる人形が存在するのであれば、人と人形(モノ)との明確な違いは揺らぐこととなる。ともかくも人とモノの根本的な違いが明晰にわからないからこそ、人間はこの世に生きていることの漠とした不安から死ぬまで解放されないのであろう。目の前には過剰なるモノが存在するだけであり、人もモノも不確かな波のように無常に揺らいでいる。
私の本の購買に関して言えば、たとえ一生その本を読まなくとも(時間がなくて読めなくとも)、幾ばくかの金を支払ってその本を所有しているだけで何の根拠もないのだけれど、何かしら自分が豊かな人間になったような錯覚があって、それゆえに次から次へと買ってしまうのだ。ネットのAMAZONだけでなく夜、散歩をしていても深夜に開いている本屋に立ち寄って習慣的に買ってしまう。しかし私の読書傾向は早く読もうとするのではなく、考えながら深く読む傾向があるので、一冊の本を読み終えるのに時間が掛かる。深く読むことは、水中に潜るのと一緒で一定時間が経つと息苦しくなってきて、水中から顔を出すように読書から現実の世界に戻らないと死んでしまいそうな気分にもなる。それで時には中身を読まないで表紙を眺めるだけで、ぼんやりと何分も時間を過ごしていることもある。だから必然的に未読の本の数は増えていく一方である。しかしそれでもよいと思っている。それは読む(消費する)ことよりも所有すること自体に何かしら神秘的な価値があるという幻想に私の精神は囚われているからだ。それは錯覚であると同時に真実でもある。不気味な事を言うようだが、私にとって本は髪の毛が生える人形のようなモノなのである。だからよほど下らないモノでない限り、私には本を捨てるようなことはできない。文字を撫で摩るようにゆっくりと読むので、買った時点で既に私の魂の一部が乗り移っているような気がするからだ。そのような生々しいモノはとても捨てられない。ブランド物のバッグを買い続ける女性も多分同じだと思うが、そのモノに気持ちが入ってしまうからモノ以上のモノとなって自分にとって至上の価値が生じるのであろう。しかし金持ちならともかく借金までして高価なモノを買い続けるのは明らかに行き過ぎである。(今時そのような人は、いないとは思うけれど。)ゴミ屋敷の住人の気持ちはよくはわからないけれど、ある特殊な精神性の人には不潔で腐敗臭を放つゴミでさえ愛着があって自分から切り離せない所有の対象となるのであろう。しかしそこにあるのは明らかに病理であると思う。死体愛好者の精神構造とあまり変わらないような気もするのだけれど。ともかくも人とモノの関係性は現代にあってはとくに難しくなってきている。景気など悪くなって当然なのだ。何を消費すべきか、何を捨て、何を持ち続けるのか、それは現代を生きるということの根源的な問いかけなのだ。そして私は唯物に還元し得ない何かしら霊妙なる存在がモノの背後に控え、人も含めてモノとモノの関係性を司っているように見えることも多いのだが、正直に言えばそれも本当はよくわからない。そうだと考えるとそうでないと思えるようなことが常に現実の中で発生して私の思考を中和させるからである。モノもまた人の心のように気まぐれで予測がつかないのである。