龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

性犯罪と女性のタイプと人生の不可解さについて

女性の性被害というものが、一体どの程度の頻度と可能性で遭遇するものなのか、男の私にはいかんとも推測しかねることではあるが、『性犯罪被害にあうということ』の著者である小林美佳さんの場合は、女性一般の平均よりも多いことは間違いないと思われる。高校生の時には、公園かどこかの茂みに押し倒されて、スカートの中に手を入れられたということである。その時には美佳さんが、大声を上げて、暴れたことで、足から下着が抜けてしまったが、下着が脱げた状態で男の身体から離れて、全速力で走って逃げることができたということだ。美佳さんはその体験を、「痴漢行為」として述べているが、傍目に見ると痴漢行為などではなくてもっと深刻なレイプ未遂だったのではなかろうか。しかし美佳さんの述懐によれば、その時には自力で窮地を脱することができたという自信のようなものがあったので、下着を相手の男に取られたであろう気持ち悪さはあったものの、それほどには心のダメージとして残らなかったようである。その辺の気持ちは男の私にもわかりそうな気がする。突如として自らの身に降りかかってきた不幸や災難を自力でコントロールできたり、逃れることができれば自信となって日々の生活の中で忘れていくこともできるが、そうすることができなくて為す術もなく、相手の暴力や脅迫によって蹂躙されるような体験をすると、心の深い部分で深く傷つきトラウマになってしまって、心身の不調やトラブルが長期間に亘って継続することになるのであろう。美佳さんが24歳の時に経験したレイプはまさにその典型例で、PTSDの発症によってその後の人生に、容易には拭い去れない多大な心の重荷となっていったもののようである。同書によれば(私の記憶違いでなければ)、美佳さんは電車での痴漢にも頻繁に合っていたようであり、東急ハンズで商品を見ていた時には、背後から腰のあたりに精液を掛けられるか、付けられるかしたこともあったようだ。一人の女性が20歳代半ばぐらいまでに経験する被害の数とすれば、明らかに多いのではなかろうか。もちろん美佳さんに、何らかの問題があるとか隙があるからだなどと言うつもりはない。私の同書の読後感で言えば、美佳さんは司法書士事務所で勤めていたということなので、いわゆる水商売関係や風俗業界で働くような女性とは違って、見た目の派手さとか、性に対するだらしなさのような雰囲気を身にまとっているようなタイプではないと思われる。レイプ被害の翌日にも、信じ難いことに一晩泣き腫らした目で、仕事を休まずに出勤したということだから、よほど芯が強いのか、性格も真面目なのであろう。法律関係の仕事をしているぐらいだから知的レベルも平均以上であろうし、身なりもおそらくはきちんとしていて、だらしなさもないであろうし、隙が多いタイプの女性とは考えられないのであるが、なぜかものすごく性犯罪の被害が多い。これは一体、どうしてなのだろうか。とは言っても会ったこともないし、同書の表紙に印刷されている美佳さんの写真1枚を見ただけでは何とも言えないものであるが、まあ敢えて言えば、ある種の「清潔感」と、どことなく「気が強そう」な見た目の印象が、少しは関係しているのかなと思えたりもする。詩織さんもそうだけれど、内面はもちろんわからないけれど、見た目にはものすごく気が強そうに見えるでしょ。ああいう女性は、男が怖がって痴漢などの被害は遭いにくいのではないかと想像しがちであるが、実際には意外と反対に、清潔感があって、気の強そうな女性を、穢したり蹂躙したいという男の歪んだ欲動の対象になりやすいというところがあるのではなかろうか。これまでの私の想像では、いかにも見るからに大人しそうで、可憐なタイプの女性が性犯罪の被害に遭遇しやすいのであろうと漠然と思っていたのであるが、まあそういうケースもあるのであろうが、必ずしもそうでないのかも知れない。意外といかにも見るからに水商売風、或いは、風俗嬢タイプなどのだらしなく見られ勝ちなタイプの女性の方が、痴漢やレイプなどの被害に遭いにくいのかも知れない。だからどうだという訳でもないが、単に私の感想である。
もう一つ言えることは、これは男女の区別はないことだが、人間は何かの事件なり出来事に遭遇すると、その後の人生においてもなぜかはわからないが、同種のことが起きやすい。たとえば交通事故に遭いやすい人間だとか、男女間の問題で相手に騙されてばかりいたり、金のことで詐欺ばかりに遭っているような人とか、世間を見渡せばそういうことがとても多いでしょ。もちろん当人にも問題がある場合もあるであろうし、性犯罪のように全くの被害者ということもあるであろうが、共通していえることは、人生においてはなぜか同種のことが繰り返しやすいものである。その理由について、私はどこかのスピリチュアリストや霊能者のように、「人生で起ることには全て意味がある」などと言うつもりはない。そういう考えがその人の希望になっているのであれば、それはそれでいいのかも知れないが、私は「意味」があるのではなくて、「解釈」があるだけだと思っている。絶対的な意味など人生にはなく、無数の解釈があるだけであって、それぞれの人間が、あくまでも主体的に自らの固有の人生において有効で、決して的外れではない自己解釈を構築していけばよいのだと考える。意味などというものは、先にあるのではなくて、後からついてくるものなんだな。先にあると考えるから、変な宗教や霊能者などにだまされてしまうことになるのである。それはともかくも、原理はよくわからないが同種の出来事が人生において共鳴するように繰り返すと言うことは、経験的にもはっきりしていると思われる。統計とか確率などの概念は、ほとんど人生において意味がないのである。たとえば日本のどこかの地方でその内に合法カジノが開かれるのであろうが、ルーレットの赤か黒に賭ける方法を考えればわかりやすい。0と00を除けば、赤が出る確率と黒が出る確率は、どちらも50%である。またそれまでの出目がどのようになっていようとも、確率論的には毎回、赤と黒の50%の確率に変化はないものである。ところが経験的に言えることは(と言っても私にカジノの経験はないが)、赤が3回とか4回続いて出ている時には、その次にはそろそろ黒が出そうなものであるが、引き続いて赤が出るパターンが多いのである。それで意地になっていつまでも赤が続くわけがないのだから、とそれまでの負けを取り返そうとして倍々で黒に賭け続けると、まるで悪魔が操作しているように赤が10回ぐらい連続して出たりするものである。それで持ち金が全部なくなって、もう賭けることができなくなった時から、続いて黒が出だすものである。ギャンブルとはそういうもので、私もFXはやっているのでよくわかるが、赤か黒か、丁か半か、上がるか下がるかという二者択一のギャンブルが、実はものすごく奥が深くて危険なんだな。日本に合法カジノができれば、赤か黒にチップを倍々で掛け続けて破産や一家離散の憂き目にあうような可哀そうな人間も少なからず出てくるのであろうなと思う。何の話だったのか、とにかく人生においてはどういう訳か同種のことが繰り返されるのだ。確率とか統計などを信じて、赤か黒ばかりに賭け続けるような生き方をしているとろくなことがないような気がするが、ともかくもギャンブルは別にしても、そのような不幸や不運の連鎖に巻き込まれないように視点を高めていかなければならないということだ。最初の話しと少しずれてきたような気もするが、最近はちょっと仕事で疲れ気味なのである、頭がうまく回らない、と言い訳をして次回に続く。