龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日々の生活と大衆意識と日本型権力の関係性について

日曜日の過ごし方は、最近では大体決まっていて、昼前ぐらいに近くの健康ランドに行ってゆっくりと風呂につかり、それから仮眠室で1~2時間ほど寝るのである。平日は日にもよるが、忙しい時には夜の11時とか12時まで仕事をしているし、土曜日は夜に太極拳を習いに行っているが、それまでは働いているので疲れが溜まっているのである。だから日曜日は疲れを取る必要性があって、その方法が私の場合は、健康ランドの風呂と昼寝なのである。先日11日の日曜日は、健康ランドの後に思いついたように、上映中の映画を見ることにした。映画を劇場で見るのは久しぶりである。それでその日は、何となく『ローガン』を見ることに決めた。何の知識もなしに見たが、まあ悪い映画ではなかった。良し悪しはともかくも、それなりにきちんと「見れる」作品であった。内容は「ミュータント」の話しである。ミュータントとは何かと言えば、近未来においてアメリカの研究所で、遺伝子操作によって軍事用に造られた特殊な能力を持つ子供のことであるようだが、これまでの同作品に連なる系列のウルヴァリン映画を見ていないのでその背景はわからない。正直に言えば、映画の中身はともかく、映像やストーリーや役者の演技よりも、エンディングに流れたジョニー・キャッシュの曲の方がよほど心に響くものがあって、それだけで劇場で映画を見た価値があったと思えたのであった。ジョニー・キャッシュの渋くも情感に溢れた歌声を聴いていると、本当に疲れが癒された。いいものに触れていると、その上質のエネルギーで元気になるが、逆もまた真なりである。ジョニー・キャッシュの声は、アメリカの開拓者精神としての正義と良心の根源を追い求めているような気がする。歌詞の内容はわからないが、声が魂の表出であることがよくわかるような歌声で、実に心のこもったいい声なのであった。
映画を観終わって、その日の夜には息子が住んでいるマンションに学校の成績をチェックするのと、学校から保護者向けに連絡されている連絡書類がないかどうかを確認しに行く。口うるさいほどに何度も、学校や塾からの連絡書類は私に報告せよと言っているのに、クラブと塾で忙しいということもあるのであろうが、忘れているのか何なのかよくわからないが、電話できちんと報告してこないのだ。こちらから何度、電話を掛けて息子に聞いても「ない、ない。」と言うばかりで、本当にないのかどうか疑わしいのである。これまでにも学校の懇談会や入試説明会などの予定を私にきちんと報告してこなかったことが頻繁にあり、元妻に聞いても、息子が大事な書類を机の引き出しに入れっ放しにして何も言わないと、私に延々と愚痴を垂れるばかりである。そんな調子なので、去年も本来ならもらえるはずであった就学支援金の一部が、腹立たしいことに提出期限切れで、戻ってこなくなったのである。元妻も息子と一緒に住んでいるのだから、毎日、息子のカバンの中を見ればよいものを、学校や塾などの金に関することは自分には関係ないからか、そこまでの真剣さがまるでないのである。そういうことなので私も忙しいし疲れてもいるので、一々マンションにまで足を運んでいられないのであるが、定期的に「家宅捜査」をしに行かなければならないのだ。女子供の管理は大変である。マンションも暫くの間は行っていなかったが、息子も高校2年生になり、大学の入試説明会や塾(高校の塾代がまた高いのだ)の受講カリキュラムの選択とかで、まあ親だから当然のことではあるが、これからは、ちょくちょく行かなければならないであろう。大学の入試制度も今は昔と随分と変わっていて、私立大学なども指定校推薦だとか公募推薦、一般入試、AO入試、センター利用など幾通りもあって、受験科目の選択とかも含めるとあまりにも複雑すぎて、冗談ではなく、よほど頭がよくなければすんなりとは理解できない代物である。私にはちょっと厳しそうである。何でこんなに複雑にする必要があるのであろうか。出会いバーに入り浸っているような文科省の役人が、高級官僚の頭の良さを見せつけるために、迷路のような複雑なシステムを日々、考案しているのであろうか。まるでカフカの小説の『城』のようだな。大衆は権力によって作り上げられた複雑怪奇な迷路の中で、翻弄されるようにして生き続けなければならないのである。
要するに何が言いたいのかと言えば、私もまた世間の人々と同じで日々の生活に忙しいのである。そして疲れてもいるのだ。それがどういうことかと言えば、仕事や生活の忙しさに追われてほとんどの人間が、全ての大衆といってもよいが、政治や報道の嘘が見抜けないで、盲従しなければならないような心理状態に追いやられているということが、資本主義システムの一義的な陰謀であると言えるのだ。本質を見る目であるとか、思考が生活の中に入り込める余地がほとんどないでしょ。これは何も文学的に気取って言っている訳ではなくて、我々日本人の命にも関わる、決して他人事ではない重大な問題なのである。大地震で一瞬の内に何万人もの人間が死んでしまうとか、まあ、いきなりそういうことを言っても大衆の意識がついてこれないことはわかっているのでそれ以上は言うつもりはないけれど、なんとか無理をして手を伸ばせば理解できそうなレベルから日本人の意識を覚醒させて、引き上げていかなければならない。そのためにこそ日本人が主体的な精神を持つ出発点として、憲法改正、自主憲法制定への着手も必要不可欠なんだけれど、安倍総理が先導する憲法改正では何の中身も期待できそうにはない。大体において安倍さんそのものが、人間的にもとまでは言わないが、少なくとも政治家としては明らかにインチキである。というよりも今の日本に本物の政治家など一人としていないであろうが。それぐらいに日本の腐敗構造は深く、広くまるで末期癌の病巣のように拡がってしまっているんだよ。そういう日本の現状に対する憂いがあるから、日々の生活に忙しくても、疲れていても、何かしら言及しなければならないという気にもなるのだが、まあ当たり前のことではあるが私一人に何ができる訳でもなく、また日本人の大衆意識の覚醒が期待できそうな段階からは程遠いと考えられるものである。大衆は自分の頭では何一つとして考えていないのである。意識にあるのは目の前の家庭や仕事、セックスや金やくだらないお笑い番組、または健康、裁判などのトラブルのことだけでしょう。つまりは自分自身と身の回りのことしか考えていないんだな。それでは意識が上がっていかないことは当然であるし、人権とかの建前はどうであれ、本質的には操作されるだけの大きな塊の一部でしかないのだ。大衆が操作されるだけの愚鈍な塊であったとしても、考えるべき少数の人間がきちんと真理と道理に沿った頭の働かせ方をしてくれているのであれば、日本はまだ救われる道もあるのであろうが、日本の権力機構は今や自浄作用が全く働かないほどに精神崩壊してしまっているのでもう手の施しようがないといった状態である。特に、マスコミがきちんと報道しないから大衆にはその酷さが認識できていないようであるが、警察機構の腐敗などは見るも無残ではないか。今の日本の警察は、盗んだり、犯したり、殺したりが当たり前になってきている。もっと言えば、皆さん日本の最大のタブーとは何かわかりますか。皇室批判とか部落問題とかそういうことではなくて、政治と報道の、言い換えれば権力と情報の癒着なんだな。効率的な国民統治のための法律制定であり、腐敗隠ぺいのための水面下での権力と情報の一体化が日本という国家の実態なのだ。詩織さんのレイプもみ消し疑惑などを見れば、そういうことは一目瞭然のはずであるが、もはや何度このような説明を繰り返しても一定レベルの意識がなくて、TVや新聞に洗脳されているだけの大衆には何を言っても無駄だということがよくわかってきた。世間を敵に回すようなことは言いたくないが、大衆とはどこまでも馬鹿なのである。馬鹿は徹底的に腐敗した社会システムの中で、馬鹿なりの幸福を追い求めていればよいのだ。馬鹿であってもそこに罪はないと思う。でも私と同じように、まあ私も多少は馬鹿であるが、日本に対して真に憂いを持つだけの意識がある人は、政治や報道の意識操作に迎合などせずに、ご自分なりの危機感を積極的に発信していっていただきたいと切にお願いするものである。そういう能力や意識がある一部の少数者は、日本の社会システムの中で幸福ではなくて、自ら不幸を取り込んで消化していかなければならない役割というか使命があるのだと私は考える。政治もジャーナリズムも現状を強化する方向にしか働けないのだよ。選挙など何百回繰り返しても、金がかかるだけで何も変わらないんだよ。もしかすれば変わるかも知れないという幻想が維持されているだけなのだから。わかる人には十分すぎるほどにわかるであろうし、わからない人間には永遠にわからないのであろう。しかし本当にこのままでは日本に未来はないと思う。何とか、わかるべき人間が、わかっていても権力やマスコミに取り込まれたり、飼い馴らされない日本人が一人でも増えて欲しいと思う。そういう一人は、何万人かの大衆に匹敵するほどの力を持ち得るであろう。民主主義は数だと言われているけれど、あれも真実から目を逸らせるための誘導みたいなもので、本当は数ではないのである。意識は深い所で結びついているから一と多の区別がないんだな。そして高い方から低い方に流れていくものなのだ。そしてそういう流れを妨害するのが、政治と報道の役割なのであるが、ご理解いただけるであろうか。そういうことが自然と理解できるかどうかということが、意識の問題なのである。