龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

『凶悪』について

最近見た映画で良かったのは、ブルーレイで鑑賞したのだけれど、『凶悪』だな。私は知らなかったが、日本アカデミー賞の優秀賞を受賞しているということだが、どうして最優秀作品賞にならなかったのかと思えた程である。
映画の良し悪しは、大体オープニングで分かる。『凶悪』の場合は、夜道を車が走行していてヘッドライトが道を照らしている。その走行中のヘッドライトにぼんやりと浮かび上がり、後方に流れてゆく道が映されるだけのシーンなのだけど、その映像にただならぬ気配が感じられて、ぞくぞく、ワクワクとするのである。そしてそのオープニングシーンだけで、その映画全体に込められている製作者の本気度や質の高さが、予感として確かに伝わってくる。この『凶悪』に限らず映画というものはそういうものだと思う。いい映画はオープニングにエネルギーとその映画への愛が静かに漲っているものである。『凶悪』の内容は拘置所に収監されていて裁判で死刑判決を争っている元ヤクザが、未だ逮捕されていない先生と呼ばれる首謀者の不動産ブローカーに復讐する目的で、闇に埋もれた殺人事件の余罪を自ら告白して、雑誌社「新潮45」の記者や警察を動かしてゆくノンフィクションである。この作品を見て興味を持ったので、その後に原作の『凶悪 ある死刑囚の告白』(新潮文庫)をいつもの通りアマゾンで買って読んだが、なるほどこの原作にして、この映画ありという感想を深めたものであった。今の時代は確かにジャーナリズムが死んでしまっている感がある。原作者の宮本太一氏もあと書きで述べているように、テレビや新聞などのマスコミであれば、警察組織との関係を重視するあまり、複数の人間を土地売買や保険金詐取の目的で平気で殺してきたような巨悪の人間を、ごく普通の市民生活の中から法廷の場に引きずり出して、正当な刑罰を与える展開に持ち込むことは難しかったであろう。新聞やテレビは官僚や警察がお墨付きを与え、許容する範囲内での正義やジャーナリズムしか現実的には持ち得ていないのである。だから自分で苦労して取材したり、事件の真相に迫ろうとする意欲やモチベーションが枯渇しているのだと見れる。新聞などの報道は正にその通りで、通信社から仕入れたり、記者クラブで入手した情報をその新聞社なりの色付けと方向性で公表しているだけのことである。マスコミだけでなく警察の捜査もその傾向があるであろうが、世の中全体が楽をしようとする方向性というか、必要最小限度以上の労苦やリスクを回避しつつ、体面と権益と独自性を保とうとするがゆえに、社会全体のモラルや活力が低下してしまっているのである。そのような時代にあって死刑囚の復讐のための告発が発端となるものであっても、このように本物のジャーナリズム魂が感じられるドキュメント本や映画が世に放たれたことは、非常に希少価値があるという以外にない。しかしよく考えれば情けないことである。表現者、追求者の安全と保身にばかりにかまけられた情報にどれほどの価値が存在するのであろうか。大手のマスコミは高給を取って偉そうなことばかり言っているが、基本的な精神構造は役所の福祉課に座っている人間とさほど変わらないものである。執念の取材や捜査を生み出す契機となるのであれば、死刑囚の怨念もまた一つの善となる。いや悪の過剰な力がなければ、正義や善も本来の姿に立ち返れないとも言える。そういうことを考えさせられる映画と原作であった。いやそれにしても映画で、死刑囚を演じたピエール瀧氏と先生こと不動産ブローカー役のリリー・フランキー氏の演技は素晴らしかった。ここに描かれているような悪人が、何のためらいもなく鼻歌を歌うように人を殺せる人間が、一見平和に見える日本にも潜んでいるのである。そういう事実を日常に炙り出すようなリアリティーのある演技で、これぞ本物の映画というべき力強い説得力が感じられた。特にピエール瀧氏の悪人ぶりは日本の映画史に名を連ねるものではなかろうか。数年前に園子温監督の『冷たい熱帯魚』を劇場で見たときには、でんでん氏の演じる殺人者の演技の凄さにひっくり返りそうになったが、それに匹敵するほどのクオリティーがあった。悪を表現するにも高度な感受性が要求されるものであろう。比較で悪口はあまり言いたくないが、たとえば北野武氏の作るバイオレンス映画などには、暴力(悪)の本質も、そのような悪を表現するところの感受性も感じ取れないものであり、個人的には何が良いのかよくわからない。結局は映画も本も役者の演技も、もっと言えば報道も警察の捜査も、そこに本物の心があるかどうかということが全てなのであろう。