龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

言っても許されること

これから年末の休みに入っていく。何をしようか。スポーツジムも図書館も休みになるので行くところがない。家にある本を持ち歩いて近くを散歩するぐらいだな。
昨日の夜はジムでクロストレーナーをしながら、林真須美のTV特集に思わず見入ってしまった。30歳になる息子が出ていてインタビューに応じていたのだが、非常に興味深く思われた。確かにこの事件は、動機の解明がなされてはいない。林真須美はカレー鍋にヒ素が混入されたとされる数時間前に、カレーの下拵えをしていた近隣の主婦たちとの間でちょっとした言い争いがあって気まずい雰囲気になったということだが、その程度のことで致死量の千倍ものヒ素を混入するということは、少なくとも息子にとってみれば考え難いことなのであろう。また当時、小学生であった息子の目から見て、事件当日の母親(林真須美)は全く普段通りの様子であり、そのような大それた犯罪をした後の態度であるとは思えなかったとも語っていた。もしそれが可能なのであれば、母親はサイコパスということになるのであろうが、息子にはそうは思えないということのようである。この息子の言葉にも私は考えさせられたのだが、林真須美は夫とともに多額の保険金詐欺を繰り返し行っていたことは事実であるので、「度胸」はあるであろうし犯罪者的な思考回路は色濃く持っているようには見えるが、サイコパスか言われれば確かにそうではないように見える。たとえ犯罪者であろうとも普通の人間であれば、大した理由もなく4人もの人間を殺しておいて平然とした顔など絶対にできないものである。しかし林真須美の事件直後の表情には全く悪びれたところが現れていなかったし、大胆不敵ともいえるような態度であった。果たして林真須美という人間はどういう人間性の持ち主なのであろうか。やはりサイコパスなのであろうか、或いは罪の意識や良心の呵責をとことん無視できる極端に冷淡な異常性格者なのであろうか。様々な状況から考えて冤罪だとは思えないが、林真須美という人物像の奥深くにあるものがはっきりとは見えてこないので、この事件そのものが謎である。
しかし穿った見方をすれば、林真須美には計算があるのかも知れないとも考えられる。何のための計算かといえば、死刑を執行させないための否認貫徹である。一時的な激情に駆られてヒ素を混入させてしまったが、動機がはっきりとしないので、死刑が確定しても否認を続けている限りは執行されることはないであろうという計算である。そしてその計算は、現在の日本の司法制度の下では有効なのかも知れない。絶対とは言えないことだが、今の状態で法務大臣が誰であれ、否認し続けている林真須美の死刑を執行する勇気は持ち得ないであろう。そういう意味では死刑囚の立場から見れば、罪を認めて反省することは、不適切な言葉かも知れないが「敗北」でしかないということにもなるのであろう。まあ色々なことを考えさせられたが、私は日本の死刑制度には反対である。日本の国家権力には形式的、法治的に死刑判決を確定させたとしても、刑を執行するだけの「資格」はないと私は考えるものである。もちろん遺族感情の問題は別である。遺族が早期の刑の執行を望むのは当然のことであるが、死刑囚は永遠の未決囚として死ぬまで拘束されていればよいのではないのか。強制的に命を絶たれることは一時的な恐怖ではあるが、それでも死というものは万人にとって平等な救いでもあるのだから。