龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

法律と道徳について

日本は法治国家だから法律に従わなければならないことは当然のことである。しかし法律と道徳は異なる。その二つを混同している人間が世の中には多過ぎる。一般大衆だけではなく、インテリ層の言論にも多く見られる。道徳とは何かと言えば、一口でわかりやすく説明すれば、人の道を踏み外さないで生きていくことである。たとえばレイプなどという行為は、明らかに人の道を踏み外したものであると言える。人を殺したり、盗んだりするのと同様に反道徳的で人としての最低限の品性が問われるべき許されざるべき所業である。道徳が支配する国に芸術や文化が育たないなどという指摘は、見当違いも甚だしい。市民道徳が社会に十全に保たれているからこそ、反道徳やインモラルな芸術表現などの文化が許容されるのである。役柄や脚本によるものではなくて現実生活の中でレイプするような俳優の行為は、映画の中での演技の上手さやクオリティーとは全く無関係である。そういう低俗なリアリティーであるとか迫真性を誰も芸術や映画の中には求めてはいないと思われる。そういうものが見たければ、無料で見れるネットのエロ動画を見ていればよいことである。それはそれである。
そういうことではなくて問題は、法律と道徳は別モノであるということである。そしてその二つを意識的に融合していく必要性があるのではないかということだ。わかりやすく単純化して言えば、法律とは単にルールの問題である。それに対して道徳とは、善悪の問題なのだ。本来、ルールは善悪に即して作られなければならないものだが、必ずしもそうはなっていないのが現実であるのに、多くの人間がそれに対して問題意識を全く持ち得ていないことが問題なのだ。レイプはそれ自体が悪である。仮にレイプを罰する法律がなかったとしても法律の有無とは無関係に悪は悪である。しかし覚せい剤の使用は、それ自体が純粋に悪なのかと言えば疑問である。被害者がいないからということではなくて、何で覚せい剤の所持や使用が禁じられているかと言えば、薬物や覚せい剤中毒者が増えれば、社会全体の治安や勤労意識が脅かされるからである。昔の中国の阿片戦争のように国家の存亡をかけて戦争しなければならないことにもなりかねない。つまりはレイプや殺人のようにそれ自体が悪なのではなくて、二次的に社会全体に弊害を及ぼす危険性が高いからという理由の政治的な悪である。だから極論で言えば、誰にも発覚することなく一生、ヘロインやコカインなどの薬をやり続けた人間がいたとしても、警察に捕まらない限りは、自分だけの問題であり、さほど社会に悪影響をもたらしたとは言えないから本質的には悪でないとも言える。中毒症状による健康被害があったとしてもそれは自己責任であって自分がその結果を引き受けるだけのことである。警察に捕まって、起訴され手続き的に、法治主義的に悪と見做される性質のものである、因みに中国は、違法薬物の密輸に関しては死刑と極端に厳しいが、個人の所持や使用に関していは薬物の被害者と見做して比較的に刑が緩いものである。これは共産党一党政治の功罪はあるにせよ、法律の在り方を道徳の善悪に近づけようとする意思は認められるのである意味では日本よりも筋道が通っているとも言える。
日本においては、法律そのものが道徳的な善悪と一致していると勘違いしている人間が多い。それはつまりは、お上のする判断は全て正しいと民主主義を放棄して、政治機関に一切を丸投げしていることと同義なのである。法律が道徳的な善悪を反映している訳ではないのだ。善悪と言うから混乱するのかも知れないが、なぜなら法律に背くことこそが一般的な市民感覚の人間にとっては、すなわち悪だと信じ込んでしまっているからであるが、仏教的に悪業と言う方がわかりやすいかも知れない。殺人やレイプや盗みはたとえ運よく警察に捕まらなくても悪業である。未来や来世に必ず悪果となってはね返ってくることであろう。しかしドラッグの使用が果たして悪業なのかと言えば私にはそうは思えない。もちろんだからと言って、その使用を推奨などするつもりはないし、前回にも述べた通り私はそのような路上で売られているような成分の知れない、何の責任も伴わない物を身体に入れたり吸うつもりはまったくない。しかしコカインやマリファナで捕まった人間をレイプ犯や殺人者と同様に人格攻撃する気にもなれない。処世術的に法律は守った方が良いと言った程度の問題だ。地獄に堕ちるべき悪人のように批判するのであればそれはちょっと違うような気がする。
むしろ法律そのものが悪を映し出していることもあるのではないのか。少なくともこの国の日本にあっては。銀行などの金融機関から金を借りる時の連帯保証人のような制度は先進国では日本だけだ。本来は何の責任も落ち度もない第三者が、善意で判子を押しただけで、全債務が実際に借入した人間と同様に押し付けられ請求されるような制度は絶対的に力の強い銀行などの金融機関を守り、善意の個人である弱者を犠牲にする悪魔のような法律である。そのような悪法によってこれまで一体、何人の人間が自ら命を絶つことにまで追い込まれてきたのか。死刑制度の是非についても同様である。人それぞれの意見はあるであろうが、私は国家は死刑を執行することで、政治の悪を国民の目から逸らせる装置にしているようにしか思えない。痴漢やDVなどの申し立てで警察が男性の言い分を全く無視して冤罪を多数発生させていることも同様である。国家権力に裏付けられた正義とは、つまりは法律は本当にそれが善なのか正義なのか、よくよく突き詰めて考えないことには見えてこないものである。法律が無条件に善や正義であると考えるような人間が多数を占めている社会はある意味ではとても危険な均衡で保たれているようにも危惧される。だからこそオウムのようなカルト集団が時には反社会的に出現する社会的な要因となっているのではなかろうか。