龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

地上世界の法と倫理

お笑いタレントの河本が、舛添について批判的なコメントをしているのには笑ってしまった。それはそうであろう。何か言いたくなる気持ちはよくわかる。舛添のやっていることに比べれば、河本の母親が生活保護を受給していた問題などは、可愛いものというか、そもそも問題性があるかどうかすら疑問である。別に、河本自身が国から金をだまし取っていた訳ではないし、母親と別世帯、別家計であるなら、当時の河本の年収と母親が生活保護をもらっていた事実は関連付けて考えるべきではないであろう。あの当時の激しいバッシングと一時は、芸能界から追放されるかの世間の反応は何だったかと考えるに、大衆の皮膚感覚的な「感情論」が中心になっていたように思われる。まあ、芸能人であるのだから、それもお笑いタレントであるなら、感情論で批判されたり裁かれることは止むを得ないところはあるであろう。所詮は人気商売なのだから。それと比べて、舛添の場合はどうであろうか。政治家も人気商売、人気稼業の側面はある。政治家の不正に対する有権者の感情論的な批判も、幾分か含まれているであろう。しかし政治家と芸能人の違いは、言うまでもないことだが、政治家には必要に応じて権力を発動させたり、様々な法律を作る立場であり、社会全体に重大な責任が伴うということである。よって河本の母親が生活保護をもらっていたことが仮に問題視されるべきことであったならば(私はそうは思わないが)、舛添のやっていることや今の都民や国民に対する不誠実な対応は、その何百倍、何千倍もの絶対悪なのである。この絶対悪をタレントの不倫や親族の生活保護受給程度にうやむやに済ませてよいものであろうか。
まあ政治家の場合は議会での追及やリコールなどもあり得るが、基本的には日本の世相は、政治家の不正もタレントの不品行も同程度の重みしか持ち得ていないような気がする。つまりそれが日本の民主主義の軽さなのだ。だから政治家の不正はいつまで経っても根絶に向かわない。政治家は身辺の都合が悪くなるとすぐに、法に従って適切に処理しています、などと言い訳をするのが常である。法律に抵触していないから問題ないと言いたいのであろうが、また舛添のように第三者の弁護士に精査させる形式を踏まえることで、権威主義的に大衆やマスコミの批判を最小限に抑えようとする姑息な手段が取られるのであるが、そういうことではなくて、政治家は法律を作ったり、権力を恣意的に発動させる側に位置する者であるのだから、法律の抜け道や悪用の方法というものを我々一般人よりもはるかに知悉しているものである。よって政治家が自らの不正疑惑を一般人と同等の感覚で、法律の文言に機械的に照らして、順法であるとか脱法行為でないとアピールする姿勢そのものが間違っていると言えるのである。政治家は立法者として、法律そのものに対して、或いは法の解釈や運用について責任を持たなければならないのであるから、法律の範囲内で不品行や悪用を為す行為が、決して看過されることにはならないということだ。むしろ政治や法の信頼性を貶めることにつながる政治家の論理や言い訳は、たとえ法律の範囲内であっても、一般人の脱法行為よりもはるかに社会に対して弊害になり得るということであって、より罪深いのである。そういうことの認識が舛添には、他者には手厳しい割に自分に対しては欠落しているように思えてならない。本質的には法ではなく、人としての倫理が問われているのだ。
ここにおいて我々は一部の政治家の悪徳行為を批判、糾弾するだけに留まらず、人間存在の次元において、法と倫理の関係性を深く考察すべきである。確かに日本は法治国家であるのだから法に従うのは当然である。また万人は法の下に公平な存在であることが憲法に保障されている。しかし人間として、或いは人類の一員として普遍的な視点から言わせていただければ、法とは究極的には単なるルールであって、ルール以上のものではあり得ないのである。たとえば野球を想像していただきたい。野球には野球のルールがある。スリーストライクでワンアウトで、スリーアウトでチェンジとなる。野球のゲームに参加していれば野球のルールに従うのは当然であって、そのルールを破ったり、審判を冒涜すれば退場にもなるが、だからと言って従っているから人間として優れているとか立派であるということにはならない。なぜなら野球のルールは単なる決まり事であって、倫理とは無関係であるからだ。市民社会の法律も野球のルールと同じであるとは言えないであろうか。一つの比喩として言えば、我々はこの世というグラウンドに、野球(人生)という真剣勝負ではあるが善悪とは無関係なゲームを演ずるために生まれてきているのである。このような言い方をすれば、ほとんどの人が生理的な拒否反応を示すであろうことはわかっているが、私はそうだと考えている。はっきり言って、この世には善も悪もないのである。あるのは善という概念と悪という概念であって、善悪の概念は善悪そのものではないのだ。我々の人生と言うスポーツは、善悪の概念と法律というルールによって形作られている。それでは純粋な善悪がどこに存在するのかと言えば、恐らくはあの世である。そしてあの世の純粋なる善に到達しようとする志向性や態度が、私は倫理の正体であると考えている。私が今、語っていることは、この世の恐ろしい実相を照らすものである。なぜならあの世ではない、我々が生きているこの世界に善悪がないということは、ルールが許しさえすれば、あるいはルールを悪用すれば、ルールが正当化して後押ししてくれるのであれば、生きている間は何をしても純粋なる悪にはならないということであるからだ。極論すれば、殺してもよいし、犯してもよいし、盗んでもよいのである。もちろんこの世の大義や世相やルールに適っていればの話しではあるが。適っていなければ、善の概念とルールによって裁かれるだけのことだ。言い換えれば、この世の善悪とはどこまでも相対的でご都合主義的な概念でしかあり得ないのであって、あの世に通ずる倫理を無視すれば、どんな悪も善に反転し得るのである。実はその相対化の作用、機能が政治というものの本質であって、その究極に戦争や国家の残虐行為があるということなのだ。だからこそ人間は法律やこの世的な正義の観念のみに条件づけられるような卑小な存在としてではなく、あの世に通ずる倫理を追及しながら、生きていく必要性があるのだと思われる。
或いは、あの世にも絶対的な善悪は存在しないのかも知れない。善悪ではなくて何ら正当化してくれる大義や、隠し立てしてくれる物質性が存在しない次元において、自らが為した行為に真正面から直面せざるを得ない状況があの世であり、個的な地獄なのだと考えられる。だからこそあの世とは、とてつもなく恐ろしい所であると同時に、善人にとっては内面の善が善として花開く場所となるのであろう。そういう私自身が、死後の地獄が恐ろしくてならないので、倫理と言うものを多少は意識せざるを得ないのだ。ああ、地獄は確かに存在する。オバマ大統領の広島での演説内容に影響されていう訳ではないが、原爆を投下して数十万人の罪なき人々を一瞬にして殺したからといっても、究極的に純粋な善悪の存在し得ないこの世にあっては、その行為は悪でも善でもない。戦勝国なのだから謝罪する必要もないであろう。ただ原爆投下を承認したトルーマン大統領は、仮にあの世が本当に存在するのであれば、地上の権力の後ろ盾がない次元で、その事実と永遠に向き合い続けなければならないであろう。それだけのことである。エノラ・ゲイパイロットも同様である。生きている限り、生きている間は、政治も宗教も集団的に倫理に背くものである。イニャリトウ監督が好きなので、最近、ディカプリオ主演の『レヴェナント』を見たが、そもそもアメリカの文明そのものが、先住民族を殺したり、犯したり、追放することによって発生してきているのだから、そういう行為からそう簡単には離れられないのである。アメリカだけではなく、日本も含めてそれが人類全体の業なのであろうか。こういうことを述べると変に思われるかも知れないが、私はこの世は、はっきりと悪魔に支配されていると思っている。悪魔とは、悪の権化なのではなく、恐らくは物質原理そのものなのである。人類の精神性の向上を妨害し、功利的な物質の次元に人間存在を押し止めようとなす不可視の企てが歴史を通じて行われてきたのではないかと考えている。よって地上世界は悪魔の領分なのである。そして、ほとんどの政治家は悪魔に魂を売ってしまっているのだと私には見える。