龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治の限界効用低下と堕落の関連性


何で我々の社会の政治は、何の学習も進歩も無いままに、これほどまでに政治と金の問題を延々として繰り返すのであろうか。それはそれが日本の民主政治そのものになってしまっているということが理由の第一なのであろうと思われるが、そう言ってしまえばそれまでのことなので、もっと本質的な部分で原因の深層を探っていく必要性があるように感じられる。

そこで私は、政治資金の「限界効用」が重大な要因になっているのではないかと考え、ここに提言するものである。限界効用とは何かと言えば、1単位の財を投入した時に、それによってどれだけ消費者の(この場合においては市民の)満足度が増えるかという指数である。今の時代は、政治資金における限界効用の数値が、非常に小さくなってきているものと見られる。その背景は、言うまでもないことだが社会資本が全国的にほぼ完備されるに至り、市民の生活レベルにおいても貧富の差の拡大と言う問題はあるものの、ほぼ全ての人が最低限度の暮らしを享受し得る状態となっている。世の中全体が成熟化すると、政治資金や政治そのものの限界効用が必然的に小さくなってしまうものである。前回に述べた田中角栄が首相を務めていた高度成長の時代は、この限界効用の値が非常に大きかったという訳だ。それはそうであろう。日に日に所得が伸び、暮らしが豊かになっていくのであるから当然のことである。はっきり言えば、この政治資金の限界効用が極限まで小さくなっている時代背景が、政治の腐敗や堕落の根本要因となっているのである。なぜなら限界効用の数値に関係なく、一人あたりの議員に与えられる政治資金は、高度成長時代やバブル期に比べても増えこそはすれ、決して縮小されてはいないからである。そうなると政治家の心理とすれば、政治資金を効果の低い正当な使い道に投入したところで有権者の満足にも、自分の票にもつながらないであろうことはわかっているから、それならうまくごまかして政治活動という建前のもとで公私混同の割合を増やし、自分自身や家族の満足度向上のために充当させて方が、純粋な金の使い道とすれば理にかなっているということになるのであろう。そしてその心理メカニズムが、舛添的(舛添だけでなく全ての議員に大なり小なり通ずるところの)堕落の本質ではないかと私には思えるものである。民主党菅直人なども、総理辞任の数か月前から嫁さんと高級料理を政治資金を使って盛んに食べ歩き、散財していたという記事を何かで読んだ記憶があるが、限界効用が様々な理由で救いようのないほどに極小化されると自然とそのようになってしまうのであろう。舛添の場合は、東京都の財政が地方に比べて桁違いに潤沢であるということは、政治資金の不正やごまかしが行われやすい一要因ではあろうが、本質的な原因ではない。潤沢であろうが貧困であろうが、政治資金の限界効用が一定以上にあれば、原理的には正当な金の使い方がなされるはずであるからだ。それではこの政治の限界効用の小ささを今日的な政治においてどのように位置付け、どのように課題化していくかということを我々は考えていかなければならない。その前に述べておかなければならないことは、限界効用以前の問題として、政治や政治資金の有り方が30年前、40年前とほとんど変わっていないということが根本的な問題である。号泣騒動の西宮元市議は、大量の切手をチケットショップに持ち込んで換金していたとのことであるが、今の時代にあって、確かに郵便でなければ告知できないような情報もあるであろうが、ほとんどのことはメールで済まされるはずではないか。出張なども実際に現地に行って視察しなければわからないようなことや、直接、当事者と面談して打ち合わせをしなければならないこともあるであろうが、簡単なことならスカイプを利用すればそれですむことではないか。それを何十年も前の旧態依然とした感覚で多額の通信費や出張費が政治資金として認められていることが間違っているのである。そういうことに改善がなされていない状況は、政界全体における悪意の怠慢放置であって、不正が行われやすい環境を意図的に温存させているだけのことだ。純粋に限界効用の問題について述べれば、これは有権者の考え方や意識とも深く関連してくることであろうが、議員の仕事が法律や条例を作ることであるとは言っても、もうすでに日本には体内を走る毛細血管のように無数の法律が張り巡らされており、これ以上に何か新しい法律を作って、我々の暮らしや精神生活が豊かになることなど基本的にはあり得ないのである。また同様に政治がなすべき役割に、富の分配があるが分配システムはもうすでに出来上がっているもので、そこに政治が介入できる余地はほとんどなくなっているように見られる。成熟社会における政治の限界効用低減とは、具体的にはそのようなことを意味するものだと考えられる。それでは何が問題なのかと言えば、それは無数の制度と制度の間隙に生ずる矛盾や不整合などによって、或いは制度自体が時代に合わなくなるなどの制度疲弊によって、市民生活が多大な不利益や不便、ストレスを被らざるを得ないような状況に陥り、社会全体がその状態から打破できないように絡め取られてしまっていることだ。分配システムの構造が時代と共に不平等の度合いを増し、格差が拡がっているにもかかわらず、その分配構造を政治が健全化する力を持ち得ていないということにあるのである。一つ例を挙げれば、女性の社会進出、積極的な登用などは安倍総理も全面的に打ち出している政治指針であり、それ自体は間違ってはいないし、先進国として国際会議の場で言及すれば歓迎もされるであろうし、体裁もよいであろう。しかし一方で今の日本の深刻な問題は、一人親家庭において子供が劣悪な生活環境に置かれているケースが増えていることにある。劣悪な生育環境下において、虐待やネグレクトが発生する可能性が大きくなるのは社会的必然である。ところが今の政治は、とくに自民党などは離婚した女性であっても、立派に働いて子供を養い育っていく理想像に囚われたり、或いは実家の支援で離婚女性が子供を育てることを露骨に政治が期待していることを伺わせるものであって、一部の貧困母子家庭は、扶養手当などの制度があるにしてもほとんど政治に切り捨てられているに等しいものである。また女性が離婚して子供を引き取っていること自体は自己責任であると見做され、女性の社会進出の道が今や広く開かれているという政治的な宣伝が浸透している状況では、たとえ飲まず食わずの状態にまでなっても、その窮状を訴えにくいという雰囲気が濃くなってきている。そのような時代背景の中で虐待やネグレクトが増えていることを自民党は明らかに無視しているものである。女性の社会進出自体は何も間違っていないし、政治が後押しすればよいことである。しかしその根底の考え方が間違っている。能力の高い女性、才能のある女性は社会の中でどんどんと頭角を現して活躍すればよいであろうが、全ての女性がそのような資質を有している訳ではない。本当は女性の社会進出とは限定された能力、資質の層を対象にした話しであるべきであって、多数の女性層は本音の部分では、結婚して子供を産み、生活のためではない自己実現のためだけの仕事と共に安穏とした生活を送ることを望んでいるのだ。全ての女性がヒラリー・クリントンになれるわけではないのだ。男と女の本質的な違いがここにある。男はどれほど能無しであっても誰も彼もが生活のために働かなければならないが、女は平凡な女性であれば、無理に資本主義社会の生産性に貢献しようとなすよりも、もちろん本人がどうしても望まないのであれば話しは別だが、無難に結婚して、家庭で子供を育てる生き方の方が当人も幸福であろうし、国家の利益にも即しているものである。なぜならどれほど優秀な女性が子供を産まずに生涯働いて寄与するGDPよりも、平凡な女性が子供を一人産んで、その子供を育てたり、その子供が成人して働くことによって得られるGDPの方がはるかに大きいであろうからだ。よって政治はそのような考えの下で制度設計をなすべきなのである。そうであればこそ働く女性はより一層輝くであろうし、貧困の中で子供が虐待死になるというような悲劇も防げるのだ。ところが自民党の政治は本質的にとても汚いので(残念ながら日本に自民党以外の政治は存在しなのだが)、今の日本国内の景気の悪さを、女性の活用化が進んでいないからだなどと誰もが否定し難いような理屈で巧みにすり替えて、ごまかしてしまうのである。だから格差貧困の構造が固定化される事態にもなっているのだ。このような事例が一つ一つ挙げればきりがないが無数に存在するであろう。

話しが逸れてきたのでまとめることにするが、要するに政治の限界効用が低下してくると政治と金の不正も起こりやすい。限界効用の低さは成熟社会の中で、制度と制度の背後の利権などが複雑に入り組んでいる政治的自由度の低さそのものも示している。政治的な限界効用の低下は、常に政治が国民を洗脳し弱者を切り捨てることによって活路を見出そうとする誘因となるものである。自民党の政治手法がまさにそれである。