龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治と金の問題とは何なのか

政治と金などと言う御託は、聞き飽きるのを通り越して、もはや辟易ともしなければ何の義憤も感じないけれど、こういうのを麻痺と言うのであろうが、事がここまでに至っても、マスコミの説明が悪いのか、或いはマスコミがわざとわからせないように論点をずらせているのか、それともマスコミ自体がきちんと理解できていない可能性もあるが、多くの国民は政治と金の問題性が理解できていないように感じられる。政治と金の何が問題になされて、何が不問に付されるのか、その線引きがどこにあるのかということになると、ほとんどの大衆は漠然とすらわかっていないのではないかと思われる。ただ何となくマスコミの論調に影響されて、舛添はけしからんとか(実際にけしからんのであるが)、ああいうせこくて金に汚い人間は辞任させるべきであるとか(それもその通りであるが)という世論が醸成されているのであるが、現実には舛添だけでなくほとんどの議員が舛添と同じようなことを当たり前のように行っているのである。それでは何で舛添(その時々でターゲットは入れ替わるが)が、つるし上げられて、その他大多数の議員がまるで黙認されているかのようにお咎めがないのかについて、わかりやすく説明できるであろうか。マスコミは1万回も「政治と金」などとシュプレヒコールのように連呼しても、そういう理解を大衆にもたらす説明は一度たりともしていないのである。
だから私はここに自分なりの言葉で政治と金の問題の肝となる部分を説明させていただくことにする。もし私の認識が間違っているのであれば、指摘していただいても結構であるが、恐らくそれほどずれていることはないという自信はある。まず結論から言えば、橋下氏なども述べているようであるが、本質的には法律上の問題ではないのである。政治資金規正法という法律はあるが、政治献金の処理の仕方であるとか、贈収賄を防ぐための設計はなされているが、政治資金の公私を厳密に区分するものではないのである。それはなぜなのかと言えば、我々の社会の民主主義とは間接民主主義であって、間接民主主義とは選挙で選んだ代表者に国民の声や要望を一任することによって有権者が民主主義に参加するシステムであって、形式的には議員は国民の審判を経て一定の権力が付与されているのであるから、政治資金についても公の利益のための正しい使い方をしてくれるに違いないという性善説的な前提が土台となっているのである。その大元の土台を崩すことは、民主主義そのものを否定することを意味するものである。よって政治資金の使い道をこと細かにこれは公で、これはプライベートだなどと監視したり、厳密なルールを作っていくことは、政治活動の自主性や守秘性を損なうものであって結果的に民主主義の健全性が歪められることになるという考え方が根底にある。またその考え方自体は決して間違っているものではないと考えられる。つまりわかりやすく言えば、何が公で何がプライベートかと決めることも国民から正式に選任された議員の権限の範疇であるということが可能であるのだ。よって議員は、明らかに犯罪性のある収賄汚職などを除けば、自由に政治資金を「合法的」に使うことが許された身分なのである。議員は所定の給与以外にも、通信費や政務調査費の名目で自分の裁量で自由にできる金がとても大きい。この「実入り」の良さが職業としての政治家の何よりの魅力であって、多くの人間が政治家になりたがる理由の第一である。もっと言えば、政治家は政治資金を公私混同しても良いのである。良いといえば語弊があるであろうが、舛添のような行為であってもただちに違法とはならないのである。舛添はそういうことをよくわかっているから、具体的な質問には一切、答えないで第三者の弁護士に厳正に調査してもらうなどと言い続けているのである。しかし政治家の政治と金の問題が全てグレーゾーンであって、広義に見れば合法であったとしても、現実には市民団体などによる刑事告発が受理されて、検察が捜査に乗り出せば西宮市議のように逮捕されたり、起訴される事態ともなり得るのである。その違いはどこにあるのかと言えば、明確な線引きなどどこにもなくて、要するにその議員の政治資金の公私混同ぶりが社会通念上、許される範囲のものであるのか、目に余るものであるのかということだけなのである。つまりは最終的には時の市民感覚が決めることであるのだ。大多数の市民が皮膚感覚的に許すのであればOKであり、許さないのであればバツなのだ。そういう認識、理解の下で舛添の行為を判断すれば、舛添は法律上の土俵で自分を正当化しようとするであろうが、最終的に○にすべきか、×にすべきかは自ずと明らかであろう。
マスコミの誘導や陰謀論的な見方も常にあるので難しい問題ではあるが、基本的にはそういうことなのである。もちろん市民感覚というものは時代と共に大きく変遷する。分かり易い例で言えば、田中角栄などは政治家として一代であれだけの財を成したが、日本列島改造論などとあれだけ強力に土木事業を推し進める政治手法であれば、その開発に関する情報だけで巨万の金を手に入れられることは当然であったであろうが、当時の人間は誰も(検察もマスコミすらも)そういうことを問題にはしなかった。なぜなら高度成長時代においては田中角栄のような政治家は日本に必要であったし、国民や日本全体が政治と利益を共有していたからである。ところが今のように世の中全体が一定の成熟に達して、これ以上の成長が期待できないような世相になると、政治家の不正や公私混同は、我々国民の利益と真っ向から対立するものとなり、舛添のような恥知らずの行き過ぎは悪徳以外の何物でもないということでしかない。今日、税理士とも話しをしていたところだが、最近の舛添の顔は本当に人相が悪くなってきている。皆さんはそう感じられないであろうか。