龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

民主主義という名の幻想

少数ではあったが、舛添氏の政治資金を巡る問題で、文字通りせこいレベルの金額なのだから辞めさせる必要までないであるとか、約50億円もの費用が掛かる都知事選挙をまたやらなければならないのなら現状維持の方がよいのではないかとか、大なり小なり他の政治家もやっていることなのに舛添氏を叩き過ぎである、まるでリンチのようだなどという声もあった。政治の見方は人それぞれなので、様々な意見があって当然であるし、私はそういう声が間違っているとか、適切でないというつもりはない。むしろ私は舛添氏のことを厳しく、辛辣に批判してきたが、根底においてはそのような声の気分と同調ではないにせよ相通ずるところが大きい。その上で言わせていただければ、そういう声の特徴は近視眼的であるというのか、舛添氏の問題に限定した見方だと思われるのである。どういうことかと言えば、舛添氏のやっていたことは確かに日本の経済規模とか政治資金から見れば小さなことだし、黙認したからといって何がどうなる訳でもないし、新たに発生する50億円の都知事選挙費用が節約できるかも知れない。しかしである。政治家は舛添氏一人ではないのである。日本には(調べたところ)、衆議院議員が475人、参議院議員が242人、都道県議会議員が2,735人、市区町村議会議員が31,741人存在するのである。これら全ての議員が、舛添氏と同じような政治資金の使い方をしていればどうなるのか。いや、どうなるのかという以前の問題として既にそうなっているのである。もちろん東京都知事と辺鄙な地方の首長が自由にできる政治資金は天と地ほどの差があるであろう。北海道の夕張市の市長がファーストクラスに乗って海外の視察に赴き、高級ホテルのスイートルームに宿泊できるとは到底考えられない。たとえそれが公務であったとしてもである。しかしどこまで公務でどこからが私的流用の線引きはともかく、全ての政治家が多かれ少なかれその地域の許容範囲内で、舛添氏的な政治資金感覚でもって多かれ少なかれ同じようなことをするとするなら(いや、現実にそうしているであろうが)、トータルすれば膨大なコストとなって、結局は日本と言う同じ釜の財政に行き着くのであるから、我々の税金への負担となって押し付けられることとなるのである。つまりそれが民主主義のコストなのだ。多くの人によく考えていただきたいのであるが、我々の民主主義は、選挙でよい政治家を選べば、その政治家の政策に有権者の声が反映されて国や地域が抱える問題が解決したり、生活環境が少しずつでも改善していくに違いないと言う「幻想」によって成り立っている。マスコミは選挙の度に、有権者の選択で世の中が大きく変わる期待感や、盛り上げの材料をばら撒く。内実的に見れば、民主主義のコストとはそういう社会が有権者の民意で変わり得るという幻想を維持するための莫大な散財なのだ。ところが社会全体が一定の成熟に達し、低成長で、金利0で海外からの政治圧力で右往左往するばかりの状態になると、政治と言うものの実質的な有効性は限りなく小さくなってしまって、まだ何もしなければよいものの政治の存在感を示すために余計な法律を作って、さらに世の中がおかしくなってしまったりであるとか、舛添氏のように潤沢な政治資金を公私混同させて合法的に蕩尽させようという政治腐敗の要因となってしまうものである。これは議員定数の問題とも深く関連することであるが、私も本音で突き詰めて言うのであれば、舛添氏のせこさなどどうでもよいという以上に、日本の民主主義の幻想そのものをはっきりと否定する必要性に迫られているのではないかと言いたい。極論して言えば、お飾り的な政治や政治家の存在など無駄なだけではないのか。実際的に切り盛りしているのは官僚と役所の公務員なのであるから、幻想を幻想として認識した上で、政治家の数や権限を極限まで減らした方が、消費税を引き上げることなどより余程、日本の財政の健全化に結びつくのではないのか。国政選挙を1回、実施するのに600億円とか700億円と言われているが、今の日本の政治にそれだけの金をつぎ込む値打ちが本当にあるのであろうか。事務次官などの高級官僚に政治家の職務も兼務させても実質的には何も変わらないのではないのか。政治やマスコミはすぐにGDPの規模であるとか、人口一人当たりの政治家の適正数を各国と比較させて、日本はいまだに政治家の数が少ないなどと誘導するがそういう問題ではないであろう。一旦、日本の政治の幻想性を打ち砕かなければ、本物の民主主義が発生する出発点とはならないのである。憲法改正もそういう意味合いにおいて議論されなければ、議論そのものが無意味である。
要するに私が言いたいことは、舛添氏の問題を些少なことだ、大衆迎合に過ぎないと主張するような人は、近視眼的にそういうことを述べる割には、どういう訳か日本の民主主義そのものは無前提、無条件に受け入れてしまっているように感じられて、私に言わせればそういう感覚の方がよほど気持ち悪いものである。つまりそこにあるのは中途半端な達観と損得勘定だけであって、本当の意味では日本の将来や健全化など何一つとして考える志向性がないのではないかということである。日本の問題は、知識人とか文化人と呼ばれる人種までもが深く洗脳されてしまって似非の感性、感覚ばかりが巣食ってしまっていることだ。たとえば今のイギリスのEUからの離脱を問う国民投票などを見ても、私はうらやましく思えてしまうのであるが、果たして日本において日米安保の存続を決める国民投票が実施される可能性など考えられるであろうか。100年後はともかくも10年や20年のスパンで考えればほぼ0であろう。もしまかり間違ってそういうことが行われる事態となれば、恐らくは(私の感覚で言えばほぼ100%に近い確率で)不正選挙が行われることであろう。もちろんイギリスの国民投票においても不正の可能性が0であるとは言えないが、同じ民主主義であってもイギリスと日本にはそれだけの歴然とした差があるということである。そういうことについて日本の文化人たちは言及する勇気を持ち得ているのか。真実を述べ得る度合いが、民主主義の成熟度なのである。