龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

大阪人と東京人の感覚の違い

少し気の早い話だが、週刊ポストが舛添都知事が辞任した後の選挙で、橋下元大阪市長が出馬するとの記事を掲載していたが、どうであろうか、私は面白いとは思うが、たとえ出馬したとしてもまず当選しないであろうと考える。なぜかと言うと、そこには東京人と大阪人の感覚の違いというものがあって、橋下氏は純粋な大阪人であるが、東京人は大阪人的なものを、大阪人が東京人を意識する以上に毛嫌いするところがあると思われるからである。それでは大阪人の特質とは何かと言えば、もちろん人それぞれであるから一概には言えないことであるが、大雑把に言えば「本音」なのである。本音を大切にする要素と共に、他者に対して自分を必要以上により良く見せようとしないという基本的な態度がある。私も大阪人であり、橋下氏に関しては特に好きでも嫌いでもないし、シンパシーを感ずるものでもないが、大阪人として共通する要素は多分にあると思われる。ただそうは言っても政治家であるからには全て、本音を晒す訳にはいかないであろうし、多くの大衆に支持してもらうためには実際以上に良く見てもらうためのテクニックが必要なのは当然であろうが、ベースにはそのような精神性があると考えられる。一方で東京人の特質はその反対で、本音を見せないで、その場や状況に合わせて取り繕う態度が一般的であって、良く言えばスマートであるが、悪く言えば腹の底で何を考えているのかわからないところがある。また自分を等身大以上によく見せようとする傾向が強いので、大阪人に言わせれば、見栄っ張りで鼻持ちならないということになる。大阪人の感覚で言えば、変に見栄を張ること自体が恥ずかしい人間的な底の浅さなのであるが、東京人には大阪人の本音や等身大の自分をアピールする姿勢は、「下品」で文化レベルが低い人種のように見えてしまうのかも知れない。
私は、大阪人と東京人のそのような地域性の違いが何から生じているのかと考えるに、一般的にも多く指摘されていることではあるが、大阪人の感覚は土着性にあるのであって、土着とは長くその場所に住み着いているという意味であるから、他者に対して見栄を張ったところでいずれは時間に摩耗されて、己の本性、本質が見透かされるゆえに、最終的には自分の利益にはならないことがわかっているという感覚なのである。だから本音とか等身大の自分を大切にせざるを得ないのである。ところが東京は違う。余所者の集まりで、その土地に永住するかどうかわからない人間の割合が高くて、また日本の富や情報が集中している場所であるから、短期的に自分の資本主義的な階級性やグレードを、精一杯見栄を張ってよく見せる健気な努力を続けなければ、生きていけないことはないであろうが、他者にそういう目で見られそういう烙印を押されてしまう土地柄である。東京だけではなくて世界中の大都市はそのようなものかも知れないが、大衆がこぞって見栄を張ってくれれば、確かに経済的には都合が良い。東京の主婦は、場所にもよるであろうが、大阪のおばちゃんのように何か物を一つ買うにも「もうちょっと、まけてえなあ。」などと値引きを要求したりはしないであろう。そういう場面を誰か知っている人に見られれば、恥ずかしくて生きていけないと考えるのが、東京人の感覚なのである。実際にどうであるかよりも、どのように見られるかの方が当人にとっては重要であるか、或いは重要性が高いのである。しかしそれは程度の差はあっても資本主義社会に共通した感覚であって、他者の目、すなわち誰かに見てもらったり、見られないように隠すということが、物の値段や価値、或いはその人の生き方、考え方に大きな影響を及ぼしているものである。わかりやすく具体的に言えば、何千万円もするような新車のポルシェやフェラーリを買っても、住んでいる場所が人口の少ない辺鄙な片田舎でその車の価値をわかってくれる人がいない年寄しかいない所で乗り回していても、所有者の満足度は低いであろう。やはり高級車は大都会で乗り回して、見て羨んでくれる人がたくさん存在するからこそ見られるということの付加価値が生ずるのである。人の目に付く上着は高級品のブランド物であっても、見えない下着は安物であるということも同様である。つまり資本主義とはその何割かは見栄の感覚で成り立っていて、大都市になればなるほどその傾向性が高いのだと考えられる。それ自体は善でも悪でもないと思う。金持ちであっても非金持ちであっても、人間は一つの文化の中で醸成された生活感覚に適合しながら生きてゆかざるを得ないからだ。土着の本音であっても大都市の見栄であっても、そこに本質的な差はなくて、つきつめれば人としてのDNAも同じなのである。
しかしである。その上で敢えて言いたいのであるが、人間の金銭感覚において「けち」と「せこい」は似て非なる言葉である。どちらも否定的な用法で使われるところは共通しているが、けちは他人の目という他者性よりも、たとえ偏屈にみられようとも自分の信念に基づいた節約という美徳の方向性を内在させているのに対して、せこいとは他者の目を欺いて自分をより良く、より立派に見せようとするごまかしの意味合いが強いものである。一概には言えないことではあるが、大阪人はけちであっても、せこくなることを忌み嫌い、そういう人間にならないように心掛ける志向性があると私は思う。橋下氏で言えば、大阪府大阪市の二重行政は無駄であるから一つにすべきだと大阪都構想を訴えることは、けちに通ずる節約意識はあっても決してせこくはない。その証拠に私立高校の無償化のように一つの信念に基づいたものであれば、数百億円の金であっても使うべきところは使うという筋道がそこにはあるからだ。それが仮にスタンドプレーの政策であったとしてもせこくはないのである。ところが舛添の不正は、それが東京人の感覚を代表していると言えば東京都民は怒るであろうが、私は東京的な見栄とか虚栄心の延長上にあるせこさの感覚が少なからず影響しているように思えてならないのである。他者の目につくところでは立派なことを言ったり、羽振りのよいところを見せていい恰好をするが、見えないところで税金をくすね取るような真似は、外面的な他者性の目だけに依存して生きている中身の欠落した人間であり、またせこさの極致であると思う。大阪人であれ東京人であれ、舛添の行為に私も含めて多くの人が限りない嫌悪感を感じるのは当然であると思う。韓国からの要請で、韓国人学校に都有地を貸与することも、一人の政治家、人間として中身があるなら認めざるを得ない場合もあるが、一方で税金泥棒のようなせこい真似を日常的にしているのであれば外面的に見栄を張っているだけのことであると見做されることは当然である。そういう意味では舛添という人間は元々、韓国政府と相通ずるところがある性質の持ち主なのであろう。
総じて言えば、もちろん私は大阪人の感覚が善で、東京的感覚が悪だなどというつもりは毛頭ないが、私も含めて人間としてのバランスで見れば、大阪人は本音や本質よりも物事の外面性や見映えをより重視し、東京人は虚飾に彩られたイメージよりも物事の本質や倹約を追求しなければならないと思われる。地方の知事がファーストクラスに乗って、東京都知事だけが倹約してビジネスクラスの飛行機に乗っているようなバランス感覚が日本全体で見ればもっとも優れた良識であると言えよう。