龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

人間を奴隷化する資本主義システム

これから述べる事は、非常に重要だと思われるので、是非、皆さんにも考えていただきたいのであるが、日銀の金融緩和であるとか財政出動などと言っても、それ自体で物価が上がる訳でもなければ、景気が良くなる訳でもない。中央銀行はいくらでも貨幣を発行することはできるが、その金が我々の生活の隅々まで血液のように行き渡らねば、情報としてはともかくも経済の実体に影響を及ぼすことは不可能なのである。いくらマイナス金利だなどと喧伝したところで、我々一般市民や企業が市中銀行から金を借りる時には金利が0になる訳ではないのだから、銀行の融資を個人や企業が大いに利用したり、引き受けてくれなければ、増刷した金の効果が生み出されないのである。これがどういうことを意味しているかと見るに、資本主義経済の本質とは「借金」で成り立っているのである。個人や企業が喜んで(かどうかはともかくも)、どんどんと借金しなければ、金も経済も回って行かないということなのである。景気がよい状態とは、すなわち万人が次々と土地や預貯金などを担保にして借金残高を膨らませていくことで全体としての経済規模が大きくなってゆくことである。その流れの中で、金の価値が土地や商品に比べて相対的に安くなると、インフレになって物価が上昇することになる。今の日本は景気も良くならないし、物価も中々デフレから脱却することができないでいる。その根源的な理由とは、私は経済学者ではないので偉そうに断言はできないが、大衆や企業が、資本主義の本質でありメカニズムの中心でもある「借金」を本能的に拒絶しているところに要因があると考えられるものである。ではそうであれば、それはなぜなのかということが、今の日本を考える上での最も重要なポイントであると言える。
因みに個人的なことを言えば、私は借金が嫌いである。単に生理的な好き嫌いで見れば、好きな人はいないであろうが、そういうことではなくて、私の場合は借金というシステムを根底において、心理的に拒絶しているのだ。などというと御大層に聞こえるかも知れないが、有り体に、通俗的に言えば(正直に言えばあまり認めたくはないが)、私には甲斐性がないのである。一口に借金と言ってもいろいろなのでひと括りにはできないが、生産的、計画的な借金というものは、甲斐性がなければできないものである。1000万円を銀行から借りて、その金を元手にして数年後に2000万円の利益を生み出す。それが男の(女であっても)甲斐性であると同時に、資本主義社会の原理そのものなのだ。またそういうプロセスを経て成功した人間が、尊敬され認められることとなる。愛人を作ったり、別荘を持てたりもする。だが私のように借金するだけの意気地もないような人間は(住宅ローンくらいはあるが)、自分でははっきりと自覚しているが、宝くじにでも当たるようなことがなければ、決して金持ちになることはあり得ないのである。場合によっては、「負け組」のレッテルを貼られる恐れもある。まあ私に言わせれば、勝ち組、負け組の分類そのものが大衆に対する洗脳工作なのであるが。それではなぜ私が意気地無しなのか、いや借金が嫌いなのかと深い次元で考察してみるに、私が拒絶しているものは借金ではなくて、借金をすることによって失われる精神的なゆとりであり、ゆとりの欠如によって必然的に導かれる思考力や、物事の本質を見極める洞察力の低下なのだ。借金を返済することと金儲けだけに頭の中が一杯になっていて、政治や世界の本性や本質を見極められない状態とは、私に言わせれば、本質的には「奴隷」なのである。私は社会的な地位であるとか、異性にもてたりすることよりも(もちろんそのような世俗的な成功者を否定する意図はないし、妬みの感情が皆無であるとも言わないが)、世界に対して奴隷でないことにこそ価値があると、心の奥底か魂の次元で悟ってしまっているところがあるのである。まあ人と変わっているというか、御し難いところのある人間なのだ。それはともかくもここまで言えば、お分かりいただけるであろうが、資本主義とは本質的に、人間を奴隷化する社会システムなのである。マルクスがどのように説明したかは知らないが、奴隷化された人間の方が情報操作しやすいし、搾取も容易であるからだ。しかしここで私が謙虚に認めなければことは、私が精神的な奴隷状態を忌避し得ることは、何も私の精神が気高くて、頭が良いからではない。むしろどちらかと言えばその反対であろうが、そういうことよりも私の両親や祖父母の世代が世界に対して生涯を通して奴隷状態に徹してきてくれたおかげで、日本という社会に貯蓄であるとか精神的なゆとりを営々として築き上げてきてくれたおかげなのである。そういう先祖の努力の結晶、賜物によって私は、いや私の世代は世界に対置し、本質を追究することによって奴隷から一歩、脱却するチャンスが与えられていると考えるものである。具体的な数値で言えば、日本には1400兆円もの個人の金融資産があると言われている。それだけの膨大な富を我々の前の世代が構築してくれたのであるから、私はそれを土台として我々の世代は人間としての本当の豊かさであるとか、大衆を絶えず奴隷のレベルに押しとどめようとする資本主義を相対化するような知性を追及していかなければならないと思うのである。しかし政府が口にすることはいつも反対であって、国の借金は1000兆円もあるのだから子や孫にその負担を引き継がせないためにも、我々は増税を引き受けて借金を減らしていく方向で努力しなければならないと訓戒する。国が国の責任で作ってきた借金を、国民に押し付けることによって我々一人一人の生活感覚を骨の髄まで借金漬けにし、奴隷状態から薄皮1枚たりとも脱皮させないように目論んでいるのである。その一方で舛添のように国民の税金である政治資金を平気でくすねるような行為が国会議員などの当たり前の金銭感覚になっているものである。
話しを戻せば、今の日本がデフレや消費低迷から脱却できないのは、アベノミクスであるとか日銀の金融政策の在り方によるものであるというよりも、戦後の国民意識の不可避的な変遷に付随するものであって、それはバブル的な思考停止、奴隷状態からの人間としての人間らしい脱皮が促されている過渡期であるように私には思えるのである。