龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

国民の怒りと日本の民主政治

あまりに不愉快なので、考えたくもないし論及するのは避けたいのであるが、そういう訳にもいかないようだ。私の代わりにきちんと論理的に批判してくれる人がいればよいのであるが、あまり人を頼ってばかりもいられない。いやでも不愉快でも自分でする以外にないのである。さて、そういうことで舛添の会見についてだが、予想していたこととは言え、何だ、あれは、国民を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と怒鳴りたくなる。結局、弁護士二人の調査結果とやらを突き詰めれば、こういう内容のことを言っているのと同じである。それは、政治家は政治資金の使い道を法律で制限されていない以上、遊興費であるとか個人の趣味であると疑われるような使い方をしても合法であるとしか言えない。ただ合法であっても不適切であると見做される使途はあり得るが、その部分に限っては、あくまでも道義的に責任を認めて、金を返却すれば済む話しであると。わざわざ、そういう結論を導き出させるために、御大層に「第三者の目による厳しい調査」などと何度も繰り返し、権威に弱い大衆の目を眩ませ、追求から逃げ切ろうとする魂胆の画策をしていたのか、と考えざるを得ない。舛添の一連の問題は、大きく言えば次の2点に集約される。
先ず政治資金の使い道が法律で制限されていないから違法ではない、ということは端から分かっていることであって、第三者に調査させて初めて判明することではない。違法か合法かという問題ではなくて、法律を作る立場の人間が、法律を悪用したり、抜け道を利用しておいて、違法でないから問題がないという弁明そのものが許されるのかということだ。我々一般人が税務調査などを受けた時には、そこにどれほど曖昧で不明瞭なグレーゾーンがあったとしても、法律ではなくて、権力に都合のよい法律の解釈を一方的に押し付けられるだけである。従わなければ追徴金や罰金を請求されるだけのことであって、現実的には法廷で争ってもほとんど勝ち目などないものである。権力とは突き詰めれば、権力そのものを正当化させその解釈を民衆に押し付けるものであると考えられるが、舛添のように露骨で、恥知らずな不正が正当化される事態になると、日本人全体に極めて深刻な悪影響を及ぼすものである。国民の三大義務であるところの納税とか、勤労までもが馬鹿らしくてやってられないということにも成りかねない。日本の善なる意識と秩序を揺るがす問題である。
もう一つはこれも重要なことであるが、舛添の問題を合法であるからとこれで幕引きさせてしまうのであれば、今後、似たような事例が発覚したとしても、政治とカネの問題として一切追及したり、取り扱わないという覚悟を、マスコミも含めて我々一般市民は持たなければならないということを意味する。その覚悟が持てるのかということだ。舛添に認めることは他の全ての政治家と、全ての疑惑に当て嵌めなければならないことは、法の公平性や整合性の観点から考えて当然のことなのである。政治とカネの問題はこれまでにも辟易とするほどに繰り返されてきたが、そこにほとんど社会的な進歩や改善が見られなかった根本的な理由は、政治とカネの問題そのものが実は日本の民主主義の重要な構成要素として機能してきたことにある。ほとんどの政治家は実際には同じようなことをしているのであるが、時期を見てスケープゴートのように誰か一人を摘発し、罪を問う儀式を行っていれば、それによって日本の民主主義は健全に成り立っているという幻想を大衆に与えると共に、本質的な部分での大衆の政治的な覚醒を阻む役割をも担ってきたのである。それゆえに日本の政治体制は一応は民主主義の形式にはなっているが、現実には官僚やマスコミ、司法、政治などが大筋の流れを司っていて、もちろんその背後にはアメリカの影響力などが重く存在するのであるが、国民の意思などほとんど無視されていたに等しいものである。実質的には一般市民は操作、誘導されるだけの対象であって、政治に参画していなかったのだ。そういう背景の中で政治とカネの問題は、一般市民がいかにも政治に参画しているように錯覚させるところの重要な政治的な仕掛けとしての意味合いが強かったのである。そういう幻想、錯覚のために我々の民主主義はこれまで多大なるコストを支払ってきているのである。よって本当は、日本の民主主義を真に健全化させる一番の近道で、本質的な方法は、政治とカネの疑惑を、巨悪の疑獄や賄賂などは別にして、舛添のようなせこくて恥知らずな不正を今後は一切問題として取り上げないということなのである。そうすれば大衆の意識は、徐々にもっと政治の本質的なところに焦点が合ってくるのであろうと思う。そういう流れの中で、やはり日本は憲法を改正して、アメリカの影響から脱皮しなければならないということの理解も生まれてくると考えられるものである。
ただ今回の舛添の問題は、これまでの政治とカネの問題とは少し趣きが異なっている。どう違うかと言えば、感覚的なものではあるが、国民全体が本気で怒っているのである。今までは、マスコミ主導の政治とカネ摘発キャンペーンみたいなもので、国民はどこか白けたような雰囲気があったが、どうも今回はそうではない。主体的に一人の人間として、舛添のような政治家は許せないと多くの国民が思っているのである。私はこれも時代の一つの流れであり、今、日本の民主政治は、大きな分岐点を迎えつつあるようにも感じられる。その何よりの兆候が国民の怒りなのだ。これまで不感症であった国民が本気で怒り始めている。それは良い傾向であると言えよう。なぜなら人間は、怒るべきところで怒れなくなってしまえば、人間性の一部が死んでしまっているのと同義であるからだ。日本人は今、静かに生き帰ろうとしている。